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印半纏(山口薬舗)

 
衿には「土浦中城町/山口薬舗」とある。中城町(現土浦市中央一丁目)は、旧城下町の中心にあたる。背には山形に「三」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(山口薬舗)

 
衿には「土浦中城町/山口薬舗」とある。中城町(現土浦市中央一丁目)は、旧城下町の中心にあたる。背には山形に「三」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(尾形家)

 
本資料は土浦の庭師(造園業)が所持したもので、土浦の料亭・呉服店・氷屋(製氷所)などの印半纏を所持していた。両衿に「尾形家」とある。背には尾形家の家紋が入る。尾形家とは土浦の老舗呉服店の「大徳」のこと。出入りの庭師が所持したものである。

未指定文化財  岡部洞水 他 合作 五節句図

 
岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。岡部洞水・長谷川雪旦・蹄斎北馬・大西椿山・喜多武清ら江戸在住の5名の絵師が、五節句の図柄をひとつずつ描いて一作品としたもの。合作は席画とも呼ばれ、詩家や料亭などでの飲食に同席した人々が興に任せて筆をとったり、書画会で客の眼前で描いたりするもので、本作品もそうした機会に描かれたものと考えられたものであろう。絵師たちの交友関係を知る手がかりとなる作品である。

未指定文化財  岡部洞水筆 花飾図

 
岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。本作品は、有職故実のひとつで、長寿を祈り邪気を払い悪疫を避ける薬玉を、繊細な筆致で優雅に色鮮やかに描いている。かすかにゆれる菖蒲の葉や五色の糸の動きは、人の気配をも感じさせる。上部にわずかに配されたすやり霞によって余白も情緒あふれるものとなっている。

未指定文化財  岡部洞水筆 寿老人

 
岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。七福神のなかでも寿老人や福禄寿は好まれた画題で、洞水もたびたび描いたものと推測される。本作品は、額が長く、杖に経典を結んだ姿の寿老人のみを画面の中央に流麗なタッチで堂々と描いた作品である。洞水の画業の充実が見て取れ、絵師として活躍していた時期のものと考えられる。

未指定文化財  岡部洞水筆 鳩図

 
岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。本作品は、宋の皇帝徽宗の筆になると伝えられる「桃鳩図」の模写である。本画の「桃鳩図」は院体画の傑作の一つとされ、近代では井上馨が所蔵していた。洞水は、没骨で表現された鳩や動きのある桃の枝を精密に写しとっている。駿河台狩野に学ぶ洞水の身の回りに、良質な手本があったことを示す作品である。

未指定文化財  佐久良東雄 和歌短冊「霰」

 
本作品は、題を「霰」とし「たてのうへに たはしりにけむ たまあられ くたけてもなほ いさましのよや (楯の上に た走りにけむ 玉霰 砕けてもなお 勇ましの世や)東雄」と詠む。東雄は、善応寺(現土浦市真鍋)住職から還俗し、尊王の志士として活躍した。「万葉法師」と呼ばれた僧康哉に和歌を学び、書作品を残している。安政の大獄で連座し、大坂から江戸へ移送され、伝馬町の牢屋にて餓死を選んだ。

未指定文化財  大久保靖斎書 五言絶句扇面

 
大久保要は土浦藩士で、通称は要、靖斎は号である。土屋彦直・寅直時代を支え、幕末には公用人を務めた。本作品は「紫藤掛雲木 花蔓宣陽春 密陽隠歌鳥 香風流美人 録李酒公詩」と、李白が「紫藤樹」と題した五言絶句を扇面にしたためたものである。

未指定文化財  谷文晁・喜多武清・関思亮 合作

 
本作品は、谷文晁が松、喜多武清が鶴、関思亮が七言二行をしたためた合作。関思亮は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目克明の実子だが、4代目を継がず29歳で逝去。克明・思亮父子は、谷文晁や滝沢馬琴ら、江戸の文人らと交遊したことで知られている。

未指定文化財 岡部洞水筆 鴛鴦之図

 
岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。つがいの鴛鴦を描いた横幅で、岩上には鮮やかな羽毛を持つ雄鳥と薔薇・竹葉を堂々と描き、水面には水かきで水の輪を緩やかに作りながら雄鳥に寄っていく、暗褐色の羽毛を持つ雌鳥を描く。明と暗、静と動、陸と水を対比させた作品である。

未指定文化財 岡部洞水筆 鍾馗図

 
岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。鍾馗は、中国の民間伝承に伝わる道教系の神で、日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形が飾られた。図像は、長いひげを蓄え、中国の官人の衣装を身に着け、剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけている姿として描かれることが多い。本作品は、洞水がスピード感のある筆致で、鍾馗の特徴を捉え描く。毛髪とひげが逆立ち、睨みをきかせた方向に帽子の羽が向く様は、画面に緊張感を醸し出している。

未指定文化財 岡部洞水筆 唐人物図(朱買臣図)

 
岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。端裏書に「朱買臣」とある。朱買臣(?~BC115)は前漢時代の官僚で、家が貧しく、薪を売って暮らし独学した。のちに武帝に見いだされ、会稽太守となるなど出世した。大器晩成・立身出世のたとえにされる人物。朱買臣の担う薪の質感や手に持つ書物のしなやかさなどに、洞水の細やかな描写がみられる。「洞水愛敬六十七歳筆」とあり、洞水67歳の作品。

未指定文化財 岡部洞水筆 農耕図

 
岡部洞水は、土浦藩土屋家に絵師として仕えた。本作品は山村の春の風景を描いたもので、画面下部には種浸し、中央には新年を言祝ぐ獅子舞を見物する人々、左上には田植えの様子を配す。日本の農村風景が描かれた貴重な作例である。

未指定文化財 霞ヶ浦海軍航空隊建設記念写真帖

 
1922(大正11)年に独立した霞ヶ浦海軍航空隊の各施設や近隣の地域、飛行訓練中の飛行部隊を空撮した写真がまとめられている。航空隊の敷地を手前にして奥側に土浦の市街地の街並みを写したものもある。

未指定文化財 霞浦航空隊めぐり

 
航空隊観光も盛り込まれた小冊子。霞ヶ浦海軍航空隊がおかれると、筑波山や霞ケ浦観光に加えて、航空隊も見どころ一つとなった。制作した柳旦堂は、土浦町で医薬・書籍販売業を営んでいたが、編著者として書籍の刊行にも携わった。冊子には案内記「筑波山と霞ケ浦」が絶版となったため訂正編集した旨が記されている。

未指定文化財 格納庫建設記念写真帖

 
霞ヶ浦海軍航空隊におかれた格納庫の組み立てから完成までの写真をまとめたもの。全長約240m、高さ約39m、間口約65mという巨大な飛行船格納庫で、第一次世界大戦の戦利品としてドイツから入手したものであった。大正11年9月4日に起工式が行われ、同3月25日に完成した。

未指定文化財 関克明・谷文晁・遠坂文雍 合作

 
関克明は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目。本作品は、克明が「暁起畦丁送 長齋思差清 落生耽此味 厭説五侯鯖」の五言絶句をしたため、右下に谷文晁が蝶を、その下部に遠坂文雍が菜の花を描いた席画。三者がバランスよく画面を分けた瀟洒な作品。

未指定文化財 関克明書 五言絶句「登鸛雀樓」

 
関克明は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目。本作品は、克明が盛唐の詩人王之渙の五言絶句「登鸛雀樓」「白日依山盡 黄河入海流 欲窮千里目 更上一層樓」を楷書でしたためた、切れ味の良い印象の作品である。

未指定文化財 関思恭四行書

 
関思恭は、書を持って土屋家に仕えた関家の初代。本作品は、「山不抂高間」とはじまり、山水の無為、自然なありようから、人倫、道徳を説いた文を草書でしたためたもの。唐様を自在にこなし、中国の書体に明るかったといわれる思恭の真価が発揮された作品。

未指定文化財 月岡芳年画 (愛宕山集合之図)密計ヲ評定シ餘波ノ宴ヲ催ス図

 
本作品は、安政7年3月3日に江戸城桜田門外において水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が彦根藩の行列を襲撃して、大老・井伊直弼を暗殺した事件に関係する錦絵である。彦根藩の行列を襲撃したのは18名で、18名描かれているが、渡海崎之助とあるのは海後磋磯之助を、大岡利子次郎とあるのは岡部三十朗のことと思われる。事件は安政7年であるが、題は「安政五年」と年紀を変えて表現している。

未指定文化財 谷文晁画 関思亮賛「墨梅図」

 
関思亮は、書を持って土屋家に仕えた関家の3代目克明の実子だが、4代目を継がず29歳で逝去。本作品は、思亮が文晁の墨梅図に七言絶句「妙画工意不工俗 老子見画只尋香 未応塗抹相斯得 政自不為時世粧」をしたためたもの。早世した思亮の希少な作品。

未指定文化財 中納言局(東福門院女官)筆 消息

 
東福門院は徳川秀忠の娘で、家光の兄弟である。元和6年に入内し、寛永元年に後水尾天皇の中宮となった。本作品は、中納言局(下冷泉為将の女性)の手紙で、幕府へ赴く道中に具合が悪くなった際、家光が土屋但馬守を遣わして、養生し快気後登城するようにと伝えてきた、このことを東福門院へ知らせて欲しい、と東福門院に仕える女性に伝えたもの。土屋但馬守は、土浦藩土屋家初代藩主数直のことである。

未指定文化財 鏑木梅渓画 関其寧賛「孔子図」

 
本作品は、孔子が周廟において子路ら2人の弟子に「宥坐之器(身近において生活の戒めとする道具)」をとおして中庸の大切さを説く場面を描く。其寧と梅渓は同年代で、江戸に本拠を置いた其寧の文人交流の一端を示す。

未指定文化財 土屋挙直 一行書

 
土屋挙直は、水戸藩徳川斉昭の第17男として誕生し、幼名を余七麻呂といった。文久3年11歳で土浦藩土屋家へ養子に入り、明治元年に養父寅直の家督を相続して最後の土浦藩主となった。版籍奉還後は、土浦藩知事に、明治4年7月の廃藩置県後は華族となり、その後東京に住んだ。本作品は、「辛未付秋」(明治4年秋)に挙直が「惟憂国家不礼親戚」としたためた一行書。

未指定文化財 土屋挙直一行書「先之労之」

 
「先之労之」は論語子路篇にある言葉で、子路が孔子に政治をなすべき道を問うたときの答え。何事も人々に先んじて行い、人々をいたわることという意味である。「乙丑仲冬 源挙直」とあり、乙丑(慶応元年 ※4月7日改元)に土浦藩主であった土屋挙直がしたためたもの。

未指定文化財 土屋数直 書状

 
土屋数直は、土浦藩土屋家初代藩主。本作は、数直が森川伊兵衛なる人物に充てて出した手紙。中納言(前田利常ヵ)の使者から鷹狩りの獲物である鴨を頂戴してかたじけない、またお茶にお招きくださるとの過分の待遇を受け、すぐにでもご挨拶にうかがいたいが詰番があるので参上できない、くれぐれもお礼を申しあげて欲しいという内容。役職や言葉遣い、中納言が前田利常と推定すると、書状の年代は1626~1629年までの間と推測される。

未指定文化財 藤森弘庵書 五言絶句「移竹」

 
本作品は「今日乗君酔 移来与結鄰 明日君醒処 只須恕酔人 移竹」と五言絶句をしたため、末尾に「移竹」とし、四君子として尊ばれた竹を擬人化して詠んだもの。弘庵の著作「春雨楼詩鈔」に収録されている。弘庵特有のはっきりした肥痩のある、特徴的な行書である。

未指定文化財 藤森弘庵書 七言絶句

 
本作品は「不知栄達等炊桑 各被仙翁霊一場 若教北宣高臥客 夢認依旧致蒙皇」の七言絶句を弘庵が63歳の時したためたもの。「辛酉」とは文久元年のことで、弘庵が亡くなる前年の書であるが、肥痩のはっきりした特徴のある行書である。

未指定文化財 藤森弘庵二行書

 
藤森弘庵は、諱を大雅、恭助と称し、字を淳風、粋然、号を弘庵・天山という。「天山」は安政の大獄で中追放を受けた安政6年以降3年間に用いた号である。本作品は「富霞緑映 明月独挙 青松落冷 白雲誰侶」と、独り己が道を貫く心境をしたためたもの。天保5年9月から弘化4年3月までの13年間、土浦藩士として藩校郁文館の教授、郡奉行などを務めた。

未指定文化財 木原老谷書 五言絶句

 
木原老谷は土浦藩士で、名を谷蔵、通称を雄吉、字を節夫、諱を元礼といい、老谷は号である。藩校郁文館の分館で藩士の教育にあたるなど、五十嵐愛山、中田平山と並び幕末の土浦藩を支えた人物のひとり。本作品は老谷が「游山寸一月 念頭忘彼我 泉声来乱耳 白雲来奪坐」の五言絶句をしたためたもの。

土浦市指定文化財 真鍋の道標

 
 享保17年(1732)に建てられた土浦最古の道標です。「右ふちう(府中:石岡のこと)水戸道 左きよたき徒【つ】くば道」と彫られています。文字の上にある梵字はサクで、勢至菩薩【せいしぼさつ】を表します。勢至菩薩【せいしぼさつ】は月待行事【つきまちぎょうじ】※の二十三夜にまつる仏様なので、二十三夜の講中によって建てられたと考えられます。現在は土浦市立博物館に移設されています。 ※十五夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に「講中」という仲間が集まり、ともに飲食したあとお経を唱えて月を拝み、悪霊を追い払う行事のこと

武者塚古墳

 
武者塚古墳は、桜川下流域の新治台地上に立地する7世紀中ごろの古墳です。墳丘は削平されていましたが、耕作に際して 地下に石棺の存在が推定され、昭和58年(1983)に新治村による村史編纂事業の一環として、筑波大学が発掘調査を行いました。調査の結果、石室は遺体を安置する玄室と副葬品を収めた前室からなり、箱式石棺と横穴式石室を折衷したような独特の形態をしていることが分かりました。石材は筑波山の麓で産出する片岩(筑波変成岩)が使われています。石室は盗掘を受けておらず、多くの副葬品が出土しました。前室からは、銀帯状金具、銀装圭頭大刀、銅装三累環頭大刀、大刀、鉄鏃、鉄柄銅杓といった金属製品が出土しています。これらの金属製品のなかには、全国的にも類例の少ない貴重な出土品が含まれており、平成14(2014)に重要文化財に指定されました。 玄室には、6体の人骨が確認されています。被葬者は、5体が成人(男性2体と性別不詳3体)で、頭を北向きに安置されていました。残りの1体は幼児で、頭を南向きに安置されていたことが分かっています。人骨の上には経錦と呼ばれる織物が出土しています。被葬者の毛髪も出土しており、当時の髪型である「美豆良」が分かる状態での出土は全国で唯一の事例です。また、被葬者の頸部付近を中心にメノウ製勾玉、水晶製切子玉、ガラス小玉などの玉類が出土しています。 平成26年(2014)と令和4年(2022)に筑波大学が地中レーダー探査と発掘調査を行いました。これらの調査によって、武者塚古墳は、従来考えられていた円墳【えんぷん】ではなく、一辺22mから23mの方墳であったことが確認されました。桜川流域では、古墳時代後期以降に箱式石棺を埋葬施設とする円墳や小型の前方後円墳が築造され、終末期に横穴石室を意識した埋葬施設の方墳へと変化していきます。この成果によって、武者塚古墳は周辺の終末期古墳と同様の古墳築造の流れを踏襲していたことが判明しました。 現在、石室は覆屋の中に保存されており、格子窓から内部をご覧いただけます。出土品については上高津貝塚ふるさと歴史の広場に保管されています。

国宝 短刀 銘 筑州住行弘

 
平造【ひらづくり】、三つ棟、小振りで僅かに内反り、重ねはやや厚い。鍛えは板目に杢【もく】交じり、刃寄りに流れ、地沸【じにえ】厚くつき、地景【ちけい】入り、よく練れて、金色明るい。刃文は小湾【このた】れに互【ぐ】の目、尖り刃風交じり、フクラあたりは逆がかり、足入り、匂い深く小沸よくつき、下半砂流【すなが】し・金筋・ほつれなどかかり、区下【まちした】は焼込み風となり、匂口【においくち】冴える。帽子は乱れ込み突き上げて先尖り、表裏とも返り深く焼き下げる。茎は生【う】ぶ、先栗尻、鑢目筋違【やすりめすじかい】、目釘孔1。作者行弘は筑前の左(大佐と呼ばれる)の門人。裏銘に「観応元年八月日」とある。観応元年は、西暦1350年である。この短刀は、地刃頗る健全味あり、銘も古雅にして、この一派中の優品である。土浦藩主土屋家の旧蔵品である。

国宝 筑前国 行弘

 
差表銘「筑州住行弘」/差裏銘「観応元年八月日」1350年。 行弘は、筑前国(福岡県北部)左文字派の刀工です。この短刀は、地鉄が良く錬れて金色明るく、匂口が冴え冴えとし、製作当初の姿をほぼ完全にとどめています。従来の九州物は、直刃を基調とした鄙びた作風でしたが、師匠の左文字の頃から一新した乱刃を焼いており、その作風樹立を知るうえで観応元年の年紀は資料的にも貴重なものです。2代藩主政直の正室幾宇子の父、松平若狭守康信(篠山藩5万石)の名で篠山藩4代信庸から贈られました。代五百貫折紙付。

国指定重要文化財 茨城県武者塚古墳出土品

 
土浦市上坂田に位置する武者塚古墳の出土品。武者塚古墳は、7世紀前半~中頃に築造された方墳である。  前室から、①把頭が尖った銀製の圭頭大刀【けいとうのたち】や把頭に青銅製の環をクローバーの葉形に繋いだ三累環頭大刀【さんるいかんとうのたち】等5口、②後世の杓子に似た鉄柄銅杓、③透し彫りを施した銀帯状金具が出土した。前室から④鉄鏃42点、玄室から⑤6体の人骨と布・皮片、⑦瑪瑙【めのう】・蛇紋岩【じゃもんがん】・碧玉・水晶の勾玉16点、水晶製切子玉1点、ガラス小玉79点が出土した。  ⑤の人骨には、髪・口髭【くちひげ】・顎鬚【あごひげ】が付いていたが、髪を頭頂から左右に分け、耳のところで束ねて紐で結び、耳の前に垂れる「みずら」と呼ばれた髪型があった。このような明確な状態での出土例はなく、全国的にも大変貴重な資料である。

国指定重要文化財 旧茨城県立土浦中学校本館

 
 明治37年(1904)7月に上棟、同12月に竣工した。ゴシック様式を基本とした意匠で、平面は左右対称の凹字型をなす。当初は天然スレート(粘板岩・玄昌石)葺であった。壁はドイツ下見板張りである。旧制中学校では最初に国重文となった。  設計者は、辰野金吾の弟子で茨城県技師の駒杵勤治【こまきねきんじ】、26歳の時の作品である。県内に現存するものでは他に旧太田中学校講堂(国重文)、水戸商業学校旧本館玄関(国登録文化財)がある。  明治の近代化政策の一環として教育施設の西洋化意匠が図られる中で、洋式建築の設計図と在来の木造技術が創り出した象徴的な建物である。  平成30年3月に耐震補強工事が完成した。

国指定重要文化財 絹本著色高峰和尚像

 
 袈裟をつけた禅僧の全身または半身の肖像画を頂相【ちんぞう】という。  高峰原妙【こうほうげんみょう】(1238~95)は中国江蘇省蘇州府呉江県の人、俗姓は徐、杭州天目山西峯の獅子巖で弘法に勤めた。獅子・大覚二寺を開き、弟子数百、受戒者数万人に及んだといわれる。  この像は「有髪【うはつ】の御影【みえ】」と呼ばれ、長髪で口辺に八の字髭を蓄えた特異な容姿は、在野を貫いた強い個性を写している。色彩は控えめで線は強く、一風変わった法衣に施された強い隈取りが印象的である。上部に絶岸可湘【ぜつがんかしょう】と王剛中【おうごうちゅう】の賛がある。  この絵は復庵宗己帰国後、禅版と共に幻住庵の珂月禅師から贈られたと伝えられる。中国元代の代表的肖像画である。

国指定重要文化財 絹本著色中峰和尚像

 
 中峰【ちゅうほう】(1263~1323)は道号、法諱は明本、俗姓は孫。杭州路銭塘県の生まれ、高峰に参禅してその法を継いだ。五山の住持に招請されたが断り、定居なく幻住と自称した。智覚禅師と諡【おくりな】され、また普応国師と加諡【かし】された。「天目中峰広録」(30巻)がある。  この頂相【ちんぞう】は、まばらな髪に無精髭を生やし、ゆったりと法衣の襟を開いて曲彔【きょくろく】に座して、払子を手にする。傍らの2僧がざくろを割っているので「柘榴【ざくろ】の御影【みえ】」と呼ばれるが、背景に屏風と高欄を配した珍しい図様である。頂相とは、袈裟をつけた禅僧の全身または半身の肖像画のことである。  中国元代の地方仏画師の作であろう。上部の自賛は中峰の真筆ではないとされる。法衣と共に、天目山の善栄禅師から贈られたものである。

国指定重要文化財 絹本著色復庵和尚像

 
復庵宗己【ふくあんそうき】は弘安3年(1280)に生まれ、俗名を宗儀という。父は小田宗知だが、小田治久の猶子となったと伝えられる。松島円福寺(のち瑞巌寺)に学び、入元して中峰明本の教えを受けた。帰国後、後光厳院や足利尊氏の招きを断って、高岡に法雲寺を開き、延文3年(1358)この地に没した。院より大光禅師の諡【おくりな】を贈られた。  この絵は「松下経行【しょうかきんひん】の御影【みえ】」と呼ばれる頂相【ちんぞう】で、黒褐色の法衣に茶色の袈裟をまとい、両手を袖中にして松の木の下を歩く、修禅生活の姿を描く。頂相とは、袈裟をつけた禅僧の全身または半身の肖像画のことである。筆致は繊細で、和風の平坦な趣が強い。  上部には法嗣龍江善沢【りゅうこうぜんたく】に与えた自賛があるが、寺伝では、絵はその龍江和尚の制作とされる。南北朝時代の代表的な頂相である。

国指定重要文化財 相模国 新藤五国光

 
差表銘「國光」。 新藤五国光は、相州鍛冶の事実上の祖で、作品は短刀が多く、直刃の妙手として名を馳せ、弟子に行光、則重、正宗といった著名刀工を輩出しています。帽子の沸が筋状に零れている様子を「翁の髭」と呼んで国光の見所としています。身幅と長さの均衡が程よくとれて内反りとなる姿はいかにも優雅で、短刀造形美の極致といえます。茎の銘字は独特の左字北冠に切られており、典型的な出来栄えとなっています。代金子拾参枚折紙付。

国指定重要文化財 太刀 銘 恒次

 
 鎬造【しのぎづくり】、庵棟【いおりむね】、身幅やや細め、鎬幅狭く、元幅と先幅に目立って開きあり、腰反り高く踏張りつき、先に行っての反りやや緩やかとなり、小鋒【こきっさき】。鍛えは小板目に杢【もく】肌交じり、総じて肌目立ち、地沸【じにえ】つき、地斑【じふ】交じり、地景入り、肌縮緬状を呈す。刃文は直刃調に小乱れ、小足入り、匂口締りごころに小沸つく。帽子は直に小丸。茎は生ぶなれども先切り(尻を僅かに詰め)、鑢目大筋違【やすりめおおすじかい】、目釘孔2。恒次は備中古青江の刀工で、後鳥羽上皇の番鍛冶(24人)の1人である。本太刀は古青江の典型的な作域を示し、古朴で深い味わいを醸成している。 佩裏【はきうら】に作者銘をきるのも特色である。

国指定重要文化財 太刀 銘 守家造

 
 鎬造【しのぎづくり】、庵棟【いおりむね】。磨上げのため反りやや浅く、中鋒【ちゅうきっさき】。鍛えは小板目肌つみ、僅かに大肌交じり、地沸【じにえ】細かにつき、乱れ映り鮮明に立つ。刃文は丁子に蛙子・互の目・尖り刃など交じり、華やかに乱れて変化がある。飛焼入り、佩裏【はきうら】は直刃調で穏やか。総じて足・葉よく入り、匂勝ち小沸つき、細かな砂流しかかり、匂口明るく冴える。帽子は乱れ込み、先尖りごころに僅かに返る。茎は磨上げ、先切り、鑢目筋違【やすりめすじかい】、目釘孔4。  守家(初代)は、長船の隣の畠田住とされるが、「長船住」の銘もあるので、畠田は長船村の字という説や、晩年に畠田派の守家・眞守が、長船派に吸収されたとする説もある。制作年代は鎌倉初期。  

国指定重要文化財 太刀 銘 信房作

 
 鎬造【しのぎづくり】、庵棟【いおりむね】。身幅細く、磨上げながらも腰反り高く、小鋒【こきっさき】。鍛えは板目に杢【もく】交じり、肌立ちごころに地沸【じにえ】つき、地景入り、淡く地斑【じふ】映り立つ。刃文は直調浅く湾れごころに小乱れ、小丁子交じり、小足・葉入り、砂流し・金筋かかり、小沸厚く付く。帽子は湾れごころに先掃きかける。佩表【はきおもて】に丸止めの腰樋。茎は磨上げ、先切り、鑢目【やすりめ】浅い勝手下り、目釘孔4(うち2つを埋める)。  信房は備前の刀工で、後鳥羽上皇から鍛冶の総長者に任じられたといわれる。制作年代は鎌倉初期。古備前より時代を下げ、福岡一文字の古一文字信房とする見解もある。

国指定重要文化財 短刀 銘 国光

 
 平造【ひらづくり】、三つ棟。内反りのついた気品ある姿態である。鍛えは小板目肌よく錬れ、流れ肌交じり、地沸【じにえ】厚く敷き、地景頻りに入り、沸映り立ち、金色冴える。刃に沿って幽かにごく細い直状の映り立つ。刃文は中直刃、匂口締りごころに、きらめく小沸よくつき、金筋入り、ところどころの島刃風の沸筋あり、表の区際【まちぎわ】を焼き込み、匂口明るく冴える。帽子は小丸に先僅かに掃きかけて返り、この部分一段と沸強く輝き、地の方へ細く湯走りごころに零れる。茎は生ぶで振袖形、先栗尻、鑢目【やすりめ】浅い勝手り、目釘孔2(うち1を埋める)。    新藤五国光は粟田口派の作風を基盤に、更にいっそう地刃に沸を厚く敷き、地景金筋の働きを顕著に表現している。鎌倉末期の作。

国指定重要文化財 銅鐘

 
 鎌倉時代建治元年(1275)源海上人が大勧進となって作られた。鋳銅製である。鐘は上下帯無文、乳は4段4列、撞座は2個ある。鋳物師は丹治久友・千門重延の2人。丹治久友は鎌倉長谷高徳院の大仏鋳造の一人として知られ、吉野金峯山寺蔵王堂銅鐘のほか多くの作品を残している。この鐘は鎌倉時代の典型的な形を示す名品である。  銘文は陰刻で、次の通り。  「大日本國常州信太庄般若寺    建治元年乙亥八月廿七日乙丑時正第二          大勧進源海    願以此功徳 普及於一切    我等與衆生 皆共成佛道        大工 丹治久友        大工 千門重延」

国指定重要文化財 銅鐘

 
 小田氏の祖八田知家が三村山清冷院極楽寺の鐘として、建永年間(1206-1207)に作らせたものである。後に藤沢に移され、戦国末期藤沢城落城後、土浦城内に移された。江戸時代には城内本丸に置かれたが、明治17年(1884)極楽寺の後身とされる等覺寺へ移された。  鐘は鋳銅製、上下帯無文で、乳は4段5列、撞座は2個である。県内の古鐘中最古の銘文をもつ。鎌倉時代の鐘として端正な姿の名品である。  銘文は型なめで一部不明だが、次の通り。 「鋳顕極楽寺鐘  奉・・・  大将(軍)・・・   建永・・・筑後入道尊念」

国指定重要文化財 木造薬師如来坐像

 
 薬師如来は薬師瑠璃光如来・大医王仏ともいわれ、東方浄瑠璃世界の教主で、病や苦悩を救う仏として信仰される。  この薬師如来像は、カヤの寄木造、漆箔であるが、箔は剥落している。目は彫眼である。頭・体とも前後 矧【は】ぎ、三道下で割首し、左肩外側も矧ぐ。右手は肩・肘・手首を矧ぎ付ける。左手は袖を矧ぎ、手首を挿す。膝前は1材を横に矧ぐが、裳先は欠損している。肉髻【にくけい】は大きく、螺髪【らほつ】は細かく整っている。  平安後期の作で定朝様式であるが、地方的特色も見られる。真言宗常福寺の本尊である。

上高津貝塚

 
上高津貝塚は、今から約4,000年前から3,000年前の縄文時代後晩期につくられた、関東地方有数の大規模貝塚です。遺跡は、桜川河口域に位置し、舌状台地の斜面に沿って馬蹄形【ばていけい】状に状に分厚い貝層が広がっています。貝層は、1~1.5mの厚さで、汽水域に生息するヤマトシジミが9割以上を占めています。 明治33年(1900) に、江見水陰が採集資料を報告した『地中の秘密』によってその存在が知られ、昭和5年以降には大山史前学研究所が発掘調査を行いました。この時の調査記録や出土遺物は、第二次世界大戦の戦災で失われています。戦後には、慶應義塾大学考古研究会や東京大学総合研究資料館(当時)によって発掘調査が行われ、昭和52年(1977)に国の史跡に指定されました。 上高津貝塚はA~E地点の5地点に分けられます。史跡整備に伴い、平成2・3年(1990・19991)にA・C・E地点で発掘調査が行われ、貝層とともに集落跡が検出されています。特に、C地点の調査では、縄文時代中期から晩期にかけての住居跡と土坑墓が検出されたほか、完形の製塩土器が4点出土しています。製塩土器の完形品の出土例は少なく、関東地方の土器製塩を考えるうえで重要な資料です。製塩土器を含む上高津貝塚出土品は、上高津貝塚ふるさと歴史の広場の常設展示にて展示されています。

国指定史跡 上高津貝塚

 
 貝殻の散布は台地縁辺部の4地点で馬蹄形状をなす。総面積約44,000㎡、縄文中期から晩期にかけての貝塚である。  明治39年(1906)江見水蔭が紹介して知られ、昭和28年(1953)以降慶應義塾高等学校・慶應義塾大学・東京大学・土浦市教育委員会等による調査で、縄文中期・後期・晩期の土器片・猪牙製品・ヤス・製塩土器のほか、シカ等の獣骨、ヤマトシジミ・マダイ・クロダイ・スズキなどの魚骨等が出土し、内湾的な漁労活動が活発に行われていたことが明らかとなった。平坦な台地より、縄文時代の竪穴建物跡4軒、掘立柱建物跡等が発掘されている。  平成7年10月より「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」として公開されている。

茨城県指定文化財・国選択無形民俗文化財 からかさ万灯

 
 かさから万灯は、五穀豊穣・家内安全と雨乞いの祈願をこめて、江戸時代中期ごろから行われたと伝わる花火行事である。毎年、8月15日に開催されている。  花火の種類は「やつぐち」、「てぼたん」、「みちび」、「つなび」に分かれ、傘の大きさは直径4m、高さ4mを測る。綱火によって点火され、傘の頂部から火を噴き、雨だれのように火の粉が降るその光景は見事である。昔は土地の若衆が花火をつくり、代々その技術が伝承されたが、今は一部を火薬製造を業者に委ねている。  昭和57年に国選択無形民俗文化財に選択された。

茨城県指定文化財 下坂田の板碑

 
 板碑は石の供養塔の一種で、関東では緑泥片岩の武蔵型と雲母片岩製の下総型がある。この板碑は下総型板碑に当る。  碑面には上部中央に、梵字【ぼんじ】で大きくキリーク(阿弥陀如来)、その下部向かって右寄りにサク(勢至菩薩)、向かって左寄りにサ(観音菩薩)が薬研彫りで刻まれる。右端に紀年銘の「永仁6年戊戌」(1298)、キリークの真下に枠つきで「南無阿弥陀仏」、その右に「孝子」・左に「敬白」と刻まれ、左端に「四月廿一日」とある。  県内における鎌倉時代の下総型板碑を代表する資料である。

茨城県指定文化財 亀城のシイ

 
 土浦城二の丸南側土塁上に生育している。樹幹は地上約1mの所で2本に分かれ、樹勢は旺盛であるが幹の中心部は空洞である。県下でも有数の大樹の一つであるが、樹齢を確定することは不可能である。樹種はブナ科のイタジイである。  イタジイ(別名スダジイ・ナガジイ)の樹幹中央部の髄は柔組織で腐り易い。単にシイと呼ぶ場合、関西では果実の丸いツブラジイを、関東では果実の長い本種イタジイを指す。種子は生食できる。

茨城県指定文化財 金銅割五鈷杵

 
 五鈷杵【ごこしょ】は密教法具の一つで、両端が五つに分岐した金剛杵で、煩悩を破り仏性を明らかにするものである。  この五鈷杵は、縦に割れ中心部に舎利を納めるところに特色がある。一端が2鈷、もう一端が3鈷に割れる。これを互い違いに組み合わせて五鈷杵としたものである。銅と真鍮に鍍金が施され、鈷は細目で張りもあり、鬼目・蓮弁もよく彫られている。  この様式は立川流などの所用といわれ、作例は少なく珍しいものである。製作は鎌倉末期と推定される。

茨城県指定文化財 金銅造阿弥陀如来立像

 
 阿弥陀如来は無量寿(無量光)如来ともいい、西方極楽浄土にあって衆生【しゅじょう】を救う仏である。印相は親指と他の指で輪をつくるのが一般的であるが、この像は右手施無畏【みぎてせむい】印・左手刀印で、善光寺式といわれる如来像である。  肉髻【にくけい】は高く、髪際は直線的で、頬は張りをもち、端正な面相である。衣文の線は強い。両手首は蟻鈉留【ありほぞどめ】であるが、足先は一鋳である。鍍金の名残がある。光背・台座はない。  「大檀越平朝臣平常益 巧匠大江末清 弘長元年七月日」の銘がある。弘長元年は鎌倉中期、西暦1261年である。 

茨城県指定文化財 結界石

 
 材質は雲母片岩製で、字は薬研【やげん】彫りで伸びやかである。製作は銘文により鎌倉時代建長5年(1253)7月である。  現在真言宗の般若寺は当時律宗であり、奈良西大寺叡尊の高弟忍性との関係が考えられる。忍性は『本朝高僧伝』に、各地に結界修法を行い、その数「結界寺院七十九所」と記されている。

茨城県指定文化財 絹本著色釈迦涅槃像

 
 涅槃図は涅槃会【ねはんえ】に用いる図で、沙羅双樹【さらそうじゅ】に囲まれた宝牀台【ほうしょうだい】に臨終の釈迦が大きく横たわり、その周囲で菩薩・羅漢・弟子をはじめ王侯貴族や庶民や動物にいたるまで、嘆き悲しむ情景を描いたものである。  この図は天上界右上方より侍女を伴う摩耶夫人【まやぶにん】が、左上からは迦陵頻伽【かりょうびんが】が飛来する。8本の沙羅双樹のうち4本は悲しみのため変色している。涅槃像の衣文には雷文が截金で表わされているが、剥落が著しい。宝牀台は斜め足もとから描かれている。  南北朝時代、宅間式部法橋の作とされる。

茨城県指定文化財 絹本著色普賢菩薩像

 
 正しくは普賢延命菩薩像とよび、密教の普賢延命法の本尊で、増益延命を司る。2臂【ひ】(台密系)と20臂(東密系)とがある。  この像は20臂で、臂毎に法具を持ち、頭上に5仏の宝冠を被る。衣には朱の地に裁金を張り、金泥で丸紋を描く。蓮台は薄い朱で描く。白象4頭は生老病死の四苦を表すが、4頭の上には四天王を置いている。  像の描き方は禅宗系のもの、制作時期は14~15世紀とみられる。

茨城県指定文化財 五鈷鈴

 
 五鈷鈴【ごこれい】は密教法具の一つで、修法【しゅほう】のとき振り鳴らして、衆生の眠れる仏性を呼び起すためのもので、鈴の上に五鈷杵【ごこしょ】をつけたものである。  この五鈷鈴は、青銅製で把【にぎり】の鬼目は大きく、鬼目の上下の蓮弁には鎬がついている。  全体として作りは簡潔であるが、鈴体の肩が張っていないところから、製作は平安末期から鎌倉初期にかけての作と推定される。

茨城県指定文化財 紺紙金泥大般若波羅蜜多経一巻(巻五〇六)

 
 この経は六百巻あるうちの巻五〇六に当たる箇所のもので、金粉をニカワにとかしたもので紺紙に1行17字で書かれる。見返しには仏画を付し、裏面の宝相華唐草の紺紙は別の紙で修理される。  寺伝では性空上人筆といわれるが、仏画の様式、書体、罫線の書式等から鎌倉時代末期頃の作とされている。

茨城県指定文化財 紙本著色小田氏治肖像画

 
 氏治は小田15代、享禄4年(1531)誕生。讃岐守となり、道号天庵。父政治の跡を継ぎ、初め佐竹氏や越後上杉氏と結ぶ。のち佐竹氏と対立、小田原北条氏と同盟したが勢力を弱め、小田城を失った。藤沢城などに拠って戦ったが、豊臣秀吉によって滅亡した。その後結城秀康に従って越前に赴き、慶長6年(1601)11月13日没した。享年71。  この像は黒い法衣をまとい、左手に念珠、右手に経巻を持ち、上畳の上に褥を敷いて安坐する。前には、左に経箱、右に猫が描かれ、箱上には法華経らしい経巻が置かれている。上部には下野雲巌寺中興の祖といわれる大虫宗岑【だいちゅうそうしん】禅師(1512~99)の賛がある。  安土桃山時代の武家人物画である。

茨城県指定文化財 紙本著色小田政治肖像画

 
 政治は小田12代成治の三男で、明応元年(1492)誕生。永正7年(1510) 14代城主となり、古河の足利高基を助ける一方、常南の上杉氏勢力を駆逐し、天文年間は小田氏の勢力範囲を、北は桜川市、東は行方市、西・南は小貝川まで広げた。領主級の大名から戦国大名に成長したのである。天文17年(1546)2月22日没、享年57。道号長伊。  この像は髪を束ね、花模様の衣の上に黒の法衣らしい衣をまとい、腰には小刀を挟み、上畳の上に褥【しとね】を敷き安坐する。前に団扇と折本を置く。像の上部には、大永2年(1522)の叔悦禅懌【しゅくえつぜんえき】(1449~1535)の賛がある。  戦国時代の代表的武家人物画である。

茨城県指定文化財 色川三中関係史料

 
 ①色川文庫は、三中自筆の稿本類と三郎兵衛家の古文書類を含む444点の資料群であり、昭和55年に市の指定文化財となった。  ②色川徳治家文書は、色川三中と弟の美年が書き継いだ色川家の日記「家事志」「家事記」「附留」26冊と色川家に宛てて出された書状をまとめた「来翰集」27冊からなる。  ③色川三中肖像画は、三中が50歳となる節目の年にその姿を後世に残そうと描かせたものと思われる。  色川家の日記は、日付、天候に始まり、その日の出来事や、来客、年中行事など三中個人の軌跡のみならず、城下町土浦の生活や民衆のあり様を知る上で貴重な資料である。また、土浦藩土屋家の困窮や外国船の来航、安政の大地震などの幕末における歴史上の記述もみられる。三中・美年兄弟の残した日記や書簡は膨大であり、幕末土浦の様子がありありと見えてくる貴重な史料といえる。

茨城県指定文化財 真鍋のサクラ

 
 明治40年(1907)真鍋小学校を現在地に移築した時、校庭の南端に記念植樹されたものである。その後の拡張により、現在では校庭の中央に5株が残存する。一時樹勢が衰えかけたが、大規模な回復事業を施したため、花期に華麗な姿を再び見せている。樹種はバラ科サクラ属のソメイヨシノ(染井吉野)である。  この種は、オオシマザクラとエドヒガンの自然交雑種である。江戸末期に染井村(東京都豊島区)の植木職人が発見・育成して、北海道・沖縄を除く全国へ拡めた。遺伝子が同一のため桜前線の指標種とされる。枝を横に張り絢爛たる花影を呈する。

茨城県指定文化財 青磁三階塔

 
 磁器は高火度還元焔焼成の焼き物で、青磁は灰に含まれる僅かな鉄の成分が還元して青色を呈する磁器をいう。南宋の龍泉窯のものが最も美しく、我が国の茶人の間ではこれを砧手、やや黄味を帯びた厚い作りの元・明代のものを天竜寺手、透明度の強い明末以降のものを七官手とよんでいる。  この塔は、龍泉窯系の七官手で、奥に如来・菩薩・天部と思われる仏が、上二階には定印を結んで結跏趺坐【けっかふざ】し、下の階は右手触地印、左手は膝の上に置く倚像、いずれも左右に僧形の立像を配し、また各階の左右に竜を配す。寄棟の屋根の中央に玉を飾る。  「法雲雑記便覧」によれば、第29世獅林碩億が江戸の磯田氏から譲られたとある。

茨城県指定文化財 石造五輪塔

 
 密教では、宇宙は地水火風空の五大によって構成されるとし、万物に輪円具足(充満)しているので輪をつけてよぶ。これを下から地輪(立方体)・水輪(球)・火輪(四角錐)・風輪(半球)・空輪(宝珠)と積み上げてあらわしたものが五輪塔である。  この五輪塔は、花崗岩製で基壇には反花【かえりばな】が配され、その下に格狭間【こうざま】があり蓮華模様が彫られている。地輪の高さは良く、水輪も力がみなぎっている。火輪の屋根の勾配はゆるく、軒反りも力強くゆったりとしている。風・空輪の形もよく、全体として均斉のとれた美しい五輪塔である。製作は鎌倉末期と推定されている。

茨城県指定文化財 石造五輪塔

 
 花崗岩製で、地輪は割合に大きく、その上の水輪はやや押しつぶされた球状である。火輪は軒上端に反りを持たせるが、下端にわずかに反りがある。空・風輪は比較的大きく、空輪と風輪との間は溝状の窪みを持つ。  無銘ではあるが、中世五輪塔の様式を考える上で貴重な資料である。室町時代末期の作と考えられる。

茨城県指定文化財 石造五輪塔

 
 花崗岩製で空・風輪がやや大きいが、全体の調和も取れ、安定感がある。  地輪正面には「功徳主頭白上人 永正十二天二月三日 大工本郷」、向かって左側面には「逆修」と数名の法名が刻まれている。永正十二年は戦国時代、西暦1515年である。在銘の塔として貴重である。  頭白上人は、当地で賊に殺された母から生まれ、生来頭髪が白かったといわれる。文明年間(1469~87)廻国僧として、東海村の村松虚空蔵堂の再建を始め、各地に足跡を残している。一説に、小田氏の一族で、太田の極楽寺開山虚海、享禄元年(1528)3月1日没といわれる。

茨城県指定文化財 石造燈籠

 
 材質は花崗岩製で、日枝神社境内にある。 基礎は円形で、複弁の反花が彫られる。竿には、上下と中央に三帯の節があり、縦に「永正八天(1511)辛未十二月二十日」の紀年銘がある。  中台は六角形で下部に単弁の請花があり、各面には格狭間が彫られている。 笠の蕨手は1つを除いて欠損し、笠は背が高く降棟も見られない。宝珠部は葱花状を呈する。 紀年銘を有し、年代の基準となる石燈籠である。

茨城県指定文化財 前野家住宅

 
 前野家は、代々名主を務めた旧家で、主屋のほかに長屋門・土蔵・納屋等の付属棟も今に残る。  この住宅は左方を土間とした直屋【すごや】型の農家である。元は桁行9間の半分の4.5間を土間、残り4.5間を田の字型に4室に区画して居住部としていた。土間寄り2.5間を広間と台所、残り2間を座敷と納戸境に床の間を設ける。居住部の全面が、かつては竹すのこ天井であったという。明治期に修理を加え、一部柱の切除をはじめ間取りも変更を受けているが、主体構造はよく保たれている。  文化3年(1806)の『家普請付留覚帳』が残り、住宅の建築年代が明らかであることが大変貴重である。  

茨城県指定文化財 太刀(銘 国貞)

 
 鎬造【しのぎづくり】、庵棟。腰反り高く踏ん張りあり、中鋒【ちゅうきっさき】。鍛えは板目地、沸つき、乱れ映り立つ。刃文は下半は小乱れ、上半は丁子乱れとなり、足・葉入り、金筋入り、総体に染みごころがある。帽子は表裏とも乱れて先焼詰に近い。茎は僅かに磨上げて先切り、鑢目【やすりめ】は勝手下りで、目釘孔3。佩【はき】表元孔上棟寄りに細鏨の二字銘がある。  国貞は鎌倉中期の備前の刀工である。この太刀はやや研ぎ減りしているが、同時代同派の特色をよく残す。とくに有銘の作刀は極めて少なく、貴重である。

茨城県指定文化財 太刀(銘 来橘光定)

 
 鎬造【しのぎづくり】、丸棟。中反り高く、中鋒【ちゅうきっさき】延びごころ。鍛えは板目で綾杉肌立ち、白気ごころがある。刃文は細直刃、浅く湾れて小沸つき、匂口沈む。帽子は僅かに湾れて先は小丸に返る。表腰に梵字、裏腰の鎬筋に素剣の彫物がある。茎は生ぶ。 表に「南無鹿島大明神常州住人来橘光定」、裏に「遍照大勝金剛王 嘉慶二年辰□□日」の銘がある。嘉慶2年は西暦1388年である。常陸の国の作刀であるばかりでなく、ほかに同銘の作を見ず、地刃ともに健全で、資料としても貴重である。

茨城県指定文化財 大般若波羅蜜多経

 
 略して大般若経ともいい、唐の三蔵法師玄奘【さんぞうほうしげんじょう】の訳で600巻からなる。般若は悟りの智恵、波羅蜜多はその完成と悟りの世界への到達の意で、大般若経はその悟りの世界をの思想で説く経典である。わが国では大般若経を供養することは無上の功徳とされ、護国除災のため経典読誦【きょうてんどくじゅ】が盛んに行われた。  この大般若経はもと沖宿の神宮寺にあったが、廃寺によってこの寺に移されたという。経文は書き写されたもので、書体は楷書と行書を交えている。第8巻の奥書には「承安五年」(1175)とある。

茨城県指定文化財 竹繊払子

 
 この払子【ほっす】は、毛束部分を竹の繊維にしたものである。柄心は竹製で朱の絹地で覆い、植物繊維を巻き込む。柄元は棕櫚【しゅろ】の皮の繊維を撚って遊環を作り、柄の中程に2本の細長い紐を結びつける。縁は棕櫚の皮の繊維の紐で軍配の形に作り、内側を植物繊維であわじ結びに編む。毛束は軍配状の縁の先端から12条につけている。  この払子を納めた箱の蓋裏墨書によれば、水戸下市の信者からの寄進であり、元代末期ないし明時代のものとされる。

茨城県指定文化財 田宮ばやし

 
 田宮ばやしは、田宮梶ノ宮神社へ奉納されるお囃子である。 楽器は大太鼓、小太鼓、大鼓、小鼓、横笛などを使う。演目は三切り、大杉ばやし、かっころばし、八車【やぐるま】、かどつけ、かえり、疱瘡【ほうそう】ばやしの七種である。  鉦を用いないことが演奏上の特徴である。また疱瘡ばやしの音律は、近在に例がない田宮独特のものである。

茨城県指定文化財 土浦城跡及び櫓門

 
 最初の城主は戦国時代の若泉氏と言われ、菅谷【すげのや】氏が続く。近世には藤井松平・西尾・朽木・土屋・大河内松平と変遷し、貞享4年(1687)土屋が再入部し、幕末に至る。明治維新後は新治県庁・郡役所等が置かれ、昭和に入り本丸・二の丸の一部を公園整備され風致地区となる。  城は三の丸まで環郭式の平城・水城で、別名亀城と呼ぶ。天守はない。平成に入り西櫓・東櫓と土塁上の塀が一部復元された。  櫓門は入母屋・本瓦葺で、本丸にある江戸時代の櫓門では関東地方唯一の現存する遺構である。

茨城県指定文化財 東城寺経塚群

 
 経塚とは、経典を土中に埋納したところである。  当経塚は、明治23年(1890)に山林所有者が発見し、明治35年(1902)には学術調査が行われた。径4mの塚など12基が点在し、各々雲母片岩で石槨【せっかく】を作る。  保安3年(1122)、天治元年(1124)銘の銅鋳製経筒のほか、経巻(法華経)、和鏡、仏具等多数の埋納品があるが、出土状況は明らかでない。経筒銘文から、天台僧経暹・明覚を勧進僧として、平安末期の豪族常陸平氏多気致幹が壇越【だんおつ】となり、築かれた。  関東地方の代表的な経塚遺跡である。出土品は東京国立博物館が保管している。

茨城県指定文化財 東城寺結界石

 
 結界石は一定の地域を区切る境界石である。ことに受戒や布薩等の儀式を行うために定めた大界・戒場・小界等の限られた地域を摂僧【せっそう】界というが、これを示す標石に「大界外相」と彫られたものである。  この結界石は雲母片岩製で、碑面中央に大きく「大界外相」、右側に「建長五年癸丑」(1253)、左側に「九月二十九日」とある。薬研彫りで浅い。山麓集落内にある他の4基(市指定文化財考古資料第10号)と一連のものであるが、東城寺境内に移された。  他にも鎌倉時代西大寺系律宗の高僧忍性による結界石は、市内宍塚の般若寺(県指定文化財考古資料第6号)、極楽寺跡(つくば市小田)にある。

茨城県指定文化財 藤原藤房卿遺跡

 
 この遺跡は「髪塔塚」とよばれ、藤原(万里小路【までのこうじ】)藤房が落飾した時の髪を埋めた所と伝えられる。塚は広さ10m四方、高さ約2mで塚の前には、三島毅(中洲)撰文の碑がある。  藤房は大納言宣房の子。『太平記』には、元弘の変(1331年)で常陸に流され、小田民部大輔【おだみんぶたいふ】に預けられたとある。その地が藤沢、民部大輔は治久とされるが、「金勝院本」に「民部少輔兼秋」とあり、治久には疑問もある。  建武の新政で帰京した藤房は、上卿として活躍するが、天皇の専制に不満を持ち、出家した。その後の消息は不明で、妙心寺二世授翁宗弼がその人との説もある。

茨城県指定文化財 銅製丸鏡

 
 青銅製で縁は直角式中縁である。  背面は中心部に花文|鈕【ちゅう】座を設ける。界圏内区の上部には、対峙する双雀を置き、左右側面から下部にかけては、草花を配している。外区には珠文・鋸歯文・櫛目文など幾何学的な文様を巡らす。界圏を境に、内区は和式文、外区は漢式文と和漢混淆形式である。この形式はまま見受けられる。 室町時代の作と考えられる。

茨城県指定文化財 銅造阿弥陀如来立像

 
 本像は、浄真寺の阿弥陀如来(茨城県指定文化財彫刻第29号)と同様、善光寺式の阿弥陀如来で現存は独尊であるが、三尊像の本尊と思われる。  両手首を除き全体は一鋳である。手首は両袖口に差し込んで、銅釘を通して固定する。鍍金痕跡は無い。低い肉髻【にくけい】と大き目の螺髪【らほつ】等は鎌倉時代後半頃の表現だが、全体に形式の単純化が進む。頭部は大きく、肉付けには硬さがあり、後頭部の螺髪は略される。 これらの特徴から、本像は14世紀の制作と推定される。

茨城県指定文化財 銅板十一面観音御正体

 
 御正体【みしょうたい】とは、御神体・聖体を敬って呼ぶ語で、金属製の鏡や像を御神体またはその本地【ほんじ】仏とし、懸仏【かけぼとけ】として礼拝したものである。  この御正体の仏は三尊形式をとり、中央は十一面観音、両脇侍は薬師如来と阿弥陀如来で、観音は蓮華・錫杖を持つ長谷寺式、薬師は左手に薬壷を持ち、弥陀は定印【じょういん】を結ぶ。3体とも毛彫りの立像、光背は舟形である。  御正体は、肩にくりこみのある宝珠形の銅板を、2本の鈉【ほぞ】で台座に挿し込んである。室町時代の作と推定される。 

茨城県指定文化財 日枝神社流鏑馬祭

 
 日枝神社は、東城寺が比叡山延暦寺を模した事にならい、近江坂本の日枝神社を勧請したもので、山王大権現と称した。祭礼は山ノ荘の平和と五穀豊穣を祈願したもので、現在4月第1日曜日に行われている。  この流鏑馬【やぶさめ】は、村人に害をなした大猿を領主の小神野【おかの】越前守(従羅天【じゅうらてん】)と弓の達人の市川将監【いちかわしょうげん】が退治した伝説を儀式化したものである。祭礼はまず、「ひとつもの」(人身御供)をむかえる使者が立ち、ひとつものが神社に送られると従羅天が馬乗疾走し将監に注進する。神輿【みこし】の渡御【とぎょ】に続いて、将監が馬上から次々と矢をつがえ、大猿になぞらえた的を射る。  室町時代の伝承を基にした物語性をもつ流鏑馬として、全国的に珍しい。

茨城県指定文化財 冨岡家住宅

 
寄棟造、茅葺の大きな建物である。もとは広間・田の字系の間取りであったが、後世の増改築により平面規模が大きく複雑になり、屋根も大きくなった。唐破風屋根の式台付玄関が付加され、現在の姿となった。小屋組や間取りなどに増改築の跡がよく残り、江戸後期以降建物規模が大きくなった様子がよく分かる貴重な建物である。創建は江戸時代中期頃と思われる。先祖は小田氏の重臣で、近世に帰農したと伝えられ、代々名主も務めている。

茨城県指定文化財 法雲寺文書

 
 中世文書類で、①聖祐寄進状1通、②足利尊氏書状1通、③証文類1巻、④荘主寮記1巻、⑤法語集2巻の5点を含む。  ①は貞和5年(1349)に尼聖祐から法雲寺への寄進状(添状)で、裏に小田孝朝の加判がある。②は尊氏から復庵宗己への書状(綸旨の添状か)、③は康暦2年(1380)から文明2年(1470)にかけての法春(武田信春か)・小田成治の寄進状、上杉憲方・同朝宗・同清方・法季(木戸範季か)の禁制、法雲寺役人連署証文等、④は嘉吉3・4年(1443・44)と長禄2年(1458)の寺領の年貢納入目録、⑤は正平12年(1357)の無隠元晦書状、ほかに雪庭紹融法語・古先印元法語・御光厳天皇綸旨案・復庵宗己諡号上奏案などである。

茨城県指定文化財 木造阿弥陀如来坐像

 
 カヤの寄木造、玉眼、錆󠄀下地漆箔。螺髪【らほつ】は大粒で3段目以上が後補、白毫【びゃくごう】・肉髻【にくけい】・両手・左手袖口・裳先・右膝奥なども後補である。頭・体部とも前後矧ぎ、首は枘【ほぞ】挿し。左肩・左袖口・膝前・右膝奥・右肩・臂・手首は矧ぎ付け、左手首は袖口に差し込む。白毫相を表し、来迎印(上品下生【じょうほんげしょう】)を結び、結跏趺坐【けっかふざ】する。  面相は豊かで引締り、衣文は複雑で彫りも深く、運慶様式である。鎌倉時代の作。内部にある室町時代の小田成治父子による修理の墨書も貴重である。

茨城県指定文化財 木造広智上人坐像

 
 上人は下野(栃木県)の人、鑑真の弟子道忠に学び、弘仁年中上野・下野に巡錫中の最澄から受法し、東国での布教に当たった。寺伝では、常陸講師最仙上人から東城寺の寺務を受け継いだとするが、詳細は不明である。  この像は、ヒノキ又はカヤ材、割矧造、彩色、玉眼、僧形の坐像で、頭・体部一材を前後に矧ぎ、内刳りを施す。下衣・法衣の上に袈裟を掛け、大きく膝前に達する。左手は膝上で掌を上に五指を軽く曲げ、右手は前方に出して掌を内に向け五鈷杵【ごこしょ】を握る。結跏趺坐【けっかふざ】して袖と裳裾を幅広く垂らす。  裳裾裏に、嘉禎三年(1237)正月の造立銘、永仁六年(1298)小田の藤原氏による彩色銘、寛延年間(1748~51)の補修銘の墨書がある。

茨城県指定文化財 木造釈迦如来立像

 
 釈迦は仏教の開祖仏陀(悟れる者の意)のこと。シャカ族出身で、姓はゴータマ、名はシッダルタ(悉達多)。古代インド、紀元前4~3世紀の人である。  この像は寄木造。前面は膝上、背面は両肩から左腕、右袖半ばまでヒノキ材。他はキリ材の後補。螺髪【らほつ】は彫出。肉髻【にくけい】珠・白毫【びゃくごう】・玉眼は水晶。頭は前後矧ぎ、割首。肉身部は朱漆塗り金泥彩、衣部は漆箔仕上げ。手は施無畏印・与願印。鎌倉末~南北朝時代の作。  光背・台座は補作。光背の周縁には宝塔と雲に乗る12如来を配し、台座は彫出の蓮華五重座である。胎内に釈迦堂縁起、万治・享保期の修理の木札などがある。

茨城県指定文化財 木造中峰禅師坐像

 
 ヒノキ材、玉眼、寄木造。頭部は3材を耳の前後で矧ぎ、中間材の下に胸前の1材を足す。体部は前後2材矧ぎで、両肩外側部を矧ぎ、内刳りを施す。肉身部は漆塗、衣部は彩色され、布貼り錆地上に宝相華文や鳳凰文等を、丹で緻密に描く。法衣の上に袈裟を掛け、禅定印を結び、曲彔【きょくろく】に結跏趺坐【けっかふざ】する。両膝部は横木1材で、これに裳裾を3段に矧ぎ付け、両袖裾側面を当て、両手首を矧ぎ付ける。  禅師は復庵和尚によって開山第一祖に勧請された。この像が祖師堂内に安置されているのはそのためである。衣紋の様式から見て、南北朝時代の作であろう。

茨城県指定文化財 木造薬師如来立像

 
 ヒノキの素地の一木造。両袖先・両手・両足先は挿し込み、また両袖先・両手・光背・台座は後補である。髪型が縄状の渦巻形に作られている点に、清凉寺式釈迦如来像の影響が見られる。鎌倉末~南北朝時代の作である。

茨城県指定文化財 木造薬師如来脇侍三尊像

 
 三尊ともヒノキの寄木造、玉眼。  薬師如来像は坐像。頭・体とも前後矧ぎ、首は枘挿し。肩・右肱・手首も矧ぎ、右手は施無畏印、左手に薬壷(後補)を持つが、左手の指先は欠失している。袈裟の右肩をはずす偏袒右肩【へんたんうけん】の形で結跏趺坐【けっかふざ】する。面・胸・両手の金箔や衣の朱彩は後補である。  日光像は立像で、右肘先を欠き、左手は垂れて、腰を僅かに捻る。月光【がっこう】像は日光と左右反対の姿である。衣は朱彩。脇侍の宝髻や三尊の光背・台座は後補である。  鎌倉時代の地方様式を踏襲するが、彫法が形式的で、南北朝時代(14世紀)の作とみられる。

茨城県指定文化財 矢口家住宅

 
水戸街道に面した土蔵造で、店蔵・袖蔵・元蔵と称する3蔵より構成される。いずれも二階建で、店蔵は店と居室からなり、袖蔵に接続している。元蔵は離れている。土浦では天保12年(1841)9月12日の大火後、町屋に土蔵造と瓦葺屋根が出現し、矢口家住宅はその代表的な建物である。  付けたりの家相図は天保9年(1838)・弘化3年(1846)・同4年(1847)・文久4年(1864)・明治45年(1912)・大正5年(1916)、その他年不明の7枚があり、間取等建物の変遷する様子がよく分かり貴重である。

茨城県指定文化財 六地蔵石幢

 
 花崗岩製で、龕【がん】部六面に地蔵像が彫られている。現在、東城寺境内の池の中島に立つ。  構造は下部より基礎・竿・中台・龕部・笠・宝珠からなる。基礎には反花【かえりばな】座を置き、やや太めの竿には節が三帯設けられる。中台は六角形で、下部に二重蓮弁の請花を彫る。小振りの笠はやや厚く、蕨手が巻き上がる。  制作は室町時代後期から安土桃山時代にかけてと推定される。

茨城県指定文化財 六地蔵石幢

 
 花崗岩製の石幢。笠が厚く宝珠は大きく、竿は太く短い特徴をもつ。  基礎には八葉の反花【かえりばな】座を置き、竿の上・中・下に節が設けられる。中台は六角で、側面に格狭間は無く、下部に請花を彫る。龕【がん】部は六角で、各面に地蔵像が浮彫られる。笠は厚く龕部に合わせて蕨手【わらびて】を設ける。宝珠部は大きめである。  筑波地方にみられる六地蔵石幢の特色をよく表している。製作は室町時代末期と推測される。

茨城県指定文化財 棕毛払子

 
 払子【ほっす】とは、古代インドにおいて柄先に獣毛等の毛束を付けて虫や蚊を払ったものを、後に仏教僧侶の威儀を正す法具となり、特に禅僧の間で流行したものである。  この払子は、毛束を棕櫚の皮の繊維で作ったものである。柄には波文・竜・草花文等が浮彫りされている。 珂月禅師から贈られた禅版(市指定文化財工芸品第52号)と共に箱に納められており、中国元代の作で中峰禅師の所持と伝えられるが、法雲寺の由緒・寺宝等を記した「法雲雑記便覧」には記載がなく、伝来の経緯等については不明である。

茨城県指定文化財 鐃の鋳型溶笵

 
 密教法具銅鐃【みっきょうほうぐどうにょう】の鋳型である。  鐃は金剛鈴に先行する法具で、奈良時代から江戸時代まで用いられた。密教と神仏習合思想のもとに存在したと考えられている。  この鋳型は土製で、外型前後の合せ型の一面である。鈴身は無文で、把は棒状につくる。把端は二重の環を設け、環上が湯口と思われる。日枝神社境内付近の畑から出土したと伝えられる。  銅鐃の鋳型溶笵は全国的に見ても類例はほとんどなく貴重である。鎌倉時代のものと考えられる。

  月岡芳年画 武田勢天目山討死之図

 
本作品は、戦国武将の勇である武田家が滅亡した天目山の戦いを描いたものである。しかしながら、この時に自刃した武田勝頼は描かれていない。中央には、土浦藩土屋家の遠祖である土屋惣蔵昌恒が、右側には兄弟の秋山民部少輔が描かれる。天目山の戦いは土屋惣蔵が活躍したもので、この錦絵の主役となっている。

  色川三中 和歌短冊「落花」

 
本作品は、題を「落花」とし「夕ま暮 まつふく風も吹きたえて ちるましつはき やまかけの花」と詠む。色川三中は、薬種商・醤油屋の傍ら、国学や考証学に関心を持ち、学問を深め、度々和歌も詠んでいた。

(霞か浦海軍飛行場) 練習用アプロ機と英国飛行教官

 
日本は飛行技術を日英同盟を結んでいたイギリスからまなんだ。イギリスが相当数の飛行機を製造しており、実践経験も有していた。

(霞か浦飛行場) 土浦川口岬上空飛行

 
川口川の上空を飛行する海軍航空隊の複葉機。たくさんの帆柱をたてた高瀬船が停泊している。左手には「通運丸」がみえる。

(霞ヶ浦海軍飛行場) アプロ機離陸飛行実況

 
英国教官団長のセンピル大佐一行が実施した航空教育では、イギリスから購入した110機の飛行機が使用された。アプロ陸上練習機・アプロ水上練習機・スパロホーク艦上戦闘機・艦上偵察機などである。

(霞ヶ浦海軍飛行場) 阿見元題アプロ機低空飛行

 
英国教官団長のセンピル大佐一行が実施した航空教育では、イギリスから購入した110機の飛行機が使用された。アプロ陸上練習機・アプロ水上練習機・スパロホーク艦上戦闘機・艦上偵察機などである。

(霞ヶ浦海軍飛行場) 英国飛行教官々舎 

 
日英同盟を結んでいた日本は、操縦技術を教授してもらうため、イギリスの飛行教官団を招請した。教官団はコの字型の海軍宿舎に入居した。

(霞ヶ浦海軍飛行場) 大正十年七月廿二日飛行場開場記念余興落下傘

 
大正10年7月22日に霞ヶ浦飛行場の開場式がおこなわれた。イギリス人の教官オードリース少佐の落下傘降下に見学者は賛嘆したという。

(霞ヶ浦海軍飛行場) 納庫内の機体

 
タイトルから格納庫のことと思われるが、詳細不明。

(霞ヶ浦海軍飛行場) 飛行機調試ノ実況

 
英国教官団長のセンピル大佐一行が実施した航空教育では、イギリスから購入した110機の飛行機が使用された。アプロ陸上練習機・アプロ水上練習機・スパロホーク艦上戦闘機・艦上偵察機などである。

(帝国軍用飛行機) 水陸両用シール 450馬力

 

(土浦町大洪水) 大和町通りの惨状 (昭和十三年六月三十日) 

 
冠水した大和町通り(現在の常陽銀行駅前支店付近にあたる)。

(土浦町大洪水) 朝日町通りの惨状 (昭和十三年六月三十日)

 
朝日町は現在の桜町3丁目付近。たくさんの船がでており、2階から出入りをする人々もみえる。

(土浦町大洪水) 土浦駅前の光景 (昭和十三年六月三十日) 

 
土浦駅舎は水没を免れたことから、ここが船の発着の起点となった。

(土浦町大洪水) 土浦駅内の混雑振り (昭和十三年六月三十日)

 
土浦駅舎は水没からまぬがれたため、ここを基点に船の出入りが激しかったという。

(土浦町大洪水) 櫻川より見たる霞ヶ浦の惨状 (昭和十三年六月三十日) 

 
蓮河原付近を撮影したものか。

(土浦名所)花ノ桜川堤

 
花のトンネルを行き交う人、堤のベンチで休憩する人、手に風呂敷包みを持ち日傘をさす和服姿の女性などがみられる。中型の雪洞(ぼんぼり)が堤上に、小さな雪洞が桜の樹にぶら下げられている。

(土浦名所)桜川堤の桜

 
桜川をゆく幔幕(紅白幕)をはった屋形船。前方の橋は銭亀橋。匂橋(昭和8年)や土浦橋(昭和9年)ができるまで、桜川橋とともに桜川を渡る主要な橋であった。

AT飛行船第2号機

 
大正13年にフランスから購入したAT飛行船第2号機。全長80m、直径18m、巡航速度61km。当時として大型軟式飛行船。

THE VIEWS OF MT.TSUKUBA 筑波山・ケーブルカー

 
筑波山ケーブルカーは戦時中に不急不要施設として撤去されたが、昭和29(1954)年11月に復活をしてた。

(霞が浦名勝)玉造沿岸高須崎の老松一ツ松

 
行方市(旧玉造町)にあった老松「高須崎の一本松」の在りし日の姿。かつては一本松の辺りが霞ヶ浦湖岸であった。茨城百景にも選出され昭和30年代までは元気な松であったが、現在は枯死し、新しい松が植えられている。

(霞が浦名勝)玉造沿岸高須崎の老松一ツ松

 
行方市(旧玉造町)にあった老松「高須崎の一本松」の在りし日の姿。かつては一本松の辺りが霞ヶ浦湖岸であった。茨城百景にも選出され昭和30年代までは元気な松であったが、現在は枯死し、新しい松が植えられている。

(霞が浦名勝)歩崎観音台より三又沖を望む

 
古くから名勝として知られた歩崎観音(長禅寺)のある台地上から、霞ヶ浦が潮来方面・土浦入り・高浜入りに分かれる三又沖を望んだ一葉。現在のかすみがうら市(旧出島村)歩崎。

(霞ヶ浦海軍飛行場)霞ヶ浦海軍航空隊正門ヨリ本部ヲ望ム

 
飛行場の建設が進み、本部建物が建設され始めたのは大正9年末頃からである。本部の場所は、現在の茨城大学農学部にあたる。

(霞ヶ浦名所)霞ヶ浦の景

 
霞ケ浦の景とのみあるが、「土浦名所」(分類4)に同じ絵葉書が存在することから、土浦川口川河口であることがわかる。

(霞ヶ浦名所)霞ヶ浦より筑波山遠望

 
風景写真に筑波山や船を描き込んだと思われる絵葉書。

(霞ヶ浦名所)霞ヶ浦土浦入の景

 
川口川河口。左側の建物は海軍航空隊の汽船乗り場。同じ絵葉書でタイトルを変えたものが「土浦名所」(分類4)のなかに含まれている。

(霞ヶ浦名所)霞台より水上班を望む

 
霞ヶ浦海軍航空隊水上班を台地よりのぞむ。同じ絵葉書は「土浦名所」(分類4)にもある。

(霞ヶ浦名所)江戸崎入の景

 
霞ヶ浦に注ぐ小野川の河口近く。江戸崎には河岸があり、江戸時代から物資流通のひとつの拠点であった。

(霞ヶ浦名所)鹿嶋神宮

 
鹿島神宮の本殿と拝殿です。1619(元和5)年に徳川秀忠によって造立され、現在は国指定重要文化財になっています。

(霞ヶ浦名所)水郷の牛堀

 
牛堀は現在の潮来市。停泊するさっぱ船の先、水上では漁をする人影がみえる。

(霞ヶ浦名所)水郷の湖来

 
タイトルに「水郷の湖来」とあるが、おそらく「水郷の潮来」のあやまりであろう。

(霞ヶ浦名所)土浦河口

 
江戸時代から河岸として発展をしてきた土浦の川口川。川口川が霞ケ浦に注ぐ河口の様子を写した一葉である。河口には帆柱を立てた高瀬船がみえる。高瀬船の帆をたたまれ、棹をさして航行している。他にも小さな帆をはった舟がみえる。左手は水神宮で、手前にはサッパ舟が係留されている。。タイトルの英語表記「THE TSUCHIURA RIVER-MOUTH,KASUMIGAURA」

(霞ヶ浦名所)麻生天王崎

 
麻生天王崎の風景。松のあいだに見えるのは外輪船であろうか。

(霞ヶ浦名勝)阿波崎沿岸

 
現在の稲敷市阿波崎地内から霞ヶ浦を望んだ一葉。阿波崎は浮島の南側に当たる。

(霞ヶ浦名勝)浮島和田の渡舟所

 
霞ヶ浦に浮かぶ島であった浮島の西端に位置する和田岬から出ていた渡し舟の様子を写した一枚。現在の浮島は地続きになっている。

(霞浦名勝)牛堀権現山眺望

 
霞ヶ浦東南部の河岸として栄えた牛堀の様子を撮影した一葉。牛堀集落の北側台地上の権現山から南を望む。

(霞浦名勝)筑波山遠望 牛堀千歳屋楼上撮影

 
霞ヶ浦東南部の河岸として栄えた牛堀の集落の様子を、当時あった千歳屋という建物の上から撮影した一葉。

(霞浦名勝)富士山遠望 牛堀山口屋後丘

 
霞ヶ浦東南部の集落牛堀から撮影した一葉。江戸時代後期に牛堀からの富士山の絵を、葛飾北斎は富嶽三十六景で描きました。

(官幣大社鹿島神宮) 奥宮

 
鹿島神宮の奥宮は、1605(慶長10)年に徳川家康が造営した旧本殿を、1619(元和5)年の造営の際に現在地に移したものである。現在、国指定重要文化財となっている。

(官幣大社鹿島神宮) 御手洗

 
「みたらしいけ」と言う。鹿島の七不思議に数えられ、この池には大人が入っても子供が入っても水は乳の辺りまでしかないと言われる。昔は神宮の森の北側は入り江になっており、船で詣でた人々はここで上陸し、手を洗い身を清めてから参拝したのでこの名が付けられた。古来、神職が潔斎する池である。

(官幣大社鹿島神宮) 御本宮

 
徳川2代将軍秀忠の造営による本殿と拝殿である。徳川家は鹿島神宮を厚く崇敬し、石田三成の文禄検地によって五百石に削られた神領に千五百石を新たに加えて、二千石とする朱印状を発行した。幕末までこの朱印地に変更は無かった。

(官幣大社鹿島神宮) 御本宮

 
現在、国指定重要文化財に指定されている建造物「鹿島神宮本殿・拝殿・幣殿・石の間」の旧景。仮殿とともに、1619(元和5)年に江戸幕府2代将軍徳川秀忠によって造営された。本殿は、極彩色あざやかな漆塗りの三間社流造、拝殿は素木の入母屋造となっている。

(官幣大社鹿島神宮) 大鳥居

 
写真面の下段には「官幣大社鹿島神宮 大鳥居」と記載があり、右上には「鹿島神宮8.6.17参拝記念」とスタンプされる。写真では木造だが、現在の鳥居は石製である。

(官幣大社鹿島神宮) 明治天皇御大刀師霊劔宮図(国宝)

 
鹿島神宮所蔵の国宝「直刀 黒漆平文太刀拵(くろうるしひょうもんたちこしらえ)」と、明治天皇が鹿島神宮に奉納した剣の写真。前者は師霊劔(ふつのみたまのつるぎ)とも呼ばれ、刀身2.2mを超える平安時代前期の作である。

(官幣大社鹿島神宮) 要石

 
建久9(1198)年の伊勢ごよみに「ゆるぐとも よみやぬけじの 要石 鹿島の神の あらんかぎりは」(読み人知らず)という歌が載ったのが、要石と地震の記録で最古のものである。

(官幣大社鹿島神宮) 樓門

 
現在、国指定重要文化財となっている鹿島神宮の楼門。1634(寛永11)年に水戸藩初代藩主徳川頼房が造営した。朱塗りで雄大な門である。

(官幣大社鹿島神宮) 樓門

 
現在、国指定重要文化財となっている鹿島神宮の楼門。1634(寛永11)年に水戸藩初代藩主徳川頼房が造営した。朱塗りで雄大な門である。

(常陸阿波名勝)大杉神社奥山より霞ヶ浦及うき島の遠望

 
大杉神社は水運の神として、船乗りたちの信仰をあつめた。うき島はかつて霞ヶ浦にあった「浮島」のことで、「常陸国風土記」にも登場する。かつての霞ヶ浦の名所のひとつであった。

(常陸阿波名勝)大杉神社前杉下通り

 
稲敷市(旧桜川村)阿波に所在。江戸時代に流行したアンバ大杉信仰の拠点として信仰を集めた。

(常陸名勝)蚕影神社登山口

 
つくば市神郡にある蚕影神社は、養蚕農家の信仰を集めていました。

(常陸名勝)土浦下高津愛岩神社

 
下高津にある愛宕神社を写した絵葉書。大正時代か。

(常陸名勝)土浦旧城址新治郡役所

 
新治郡役所と土浦城櫓門が写されている。新治郡役所は大正12年の郡制廃止後、新治郡自治会館となることから、大正12年より以前に発行された絵葉書である。

(常陸名勝)土浦桜川の漁

 
大正時代の桜川での四つ手網漁の様子。桜川の堤防はこの後たびたび改修が行われていく。

(常陸名勝)土浦小松勢至か峯

 
小松の勢至ヶ丘における花見風景と思われる。茶店がでていたようで「エビスビール」の文字もみえる。

(常陸名勝)土浦小松西至か峯

 
小松勢至ヶ丘(土浦市小松)の花見の様子。高台から霞ヶ浦や市街地、筑波山を望むことができた。

(常陸名勝)土浦真鍋台の桜

 
真鍋台にあった総宜園。六号国道(現国道125号線)の工事で削られるまでは、土浦町や霞ヶ浦も望めるお花見の名所だった。写真絵葉書。

(常陸名勝)土浦鷲の宮公園

 
東崎町の鷲宮神社は「土浦名所」絵葉書や大正時代のガイドブック「土浦案内誌」などにも登場する。

(水戸名所)景勝の地を占める水戸城址

 
水戸城二の丸址にたつ御三階櫓(昭和20年の空襲により焼失)。実質的な天守閣であった。

(水戸名所)城址

 
水戸城の二の丸跡に建つ御三階櫓。昭和20年の空襲により焼失した。

(水戸名所)水戸旧城

 
水戸城二の丸跡にたつ御三階櫓(昭和20年に空襲により焼失)。

(水戸名所)水戸旧城

 
水戸城二の丸跡にたつ御三階櫓(昭和20年に空襲により焼失)。異なるアングルの絵葉書あり。

(水戸名所)大手橋ヨリ弘道館ヲ望ム

 
水戸城の二の丸側より藩校弘道館を望む。水戸徳川家9代藩主徳川斉昭により天保12(1841)年に創設された。

(水戸名所偕楽園内)好文亭

 
偕楽園内部にある3階建ての好文亭と奥御殿は、天保13年(1842)の建設。好文亭の名は梅の別名好文木に由来。昭和20年の空襲で焼失し、昭和32年復元される。奥御殿は昭和44年に落雷で焼失し、47年に復元される。

(水戸名勝)昔を偲ぶ旧城址

 
空の部分のみ着色された絵葉書。水戸城二の丸の御三階櫓が写る。この櫓は戦災にて焼失した。

(水戸名勝)大手橋と弘道館

 
水戸城址大手橋と水戸藩の藩校弘道館の正門・正庁。大手橋を人力車がわたっている。絵葉書宛名面の書式から大正7~昭和8年の発行と推定される。

(筑波山) ケーブルカー

 
筑波山ケーブルカー(筑波山鋼索鉄道)の開業は大正14(1925)年10月のこと。関東地方では箱根に次いで2番目のケーブルカーであった。

(筑波山名所)ケーブルカー長嶺トンネルの景

 
大正14年に開業したケーブルカーは、全長1.6km、最急勾配は1000分の350、高度差は507mに達した。

(筑波山名所)筑波山全景

 
筑波山を南側からのぞむ。山麓の様子がよくわかる一葉。

(筑波名勝)四季の眺(其一) 

 
四季折々の風景を並べた絵葉書。シリーズで発行されたものと考えられるが、収蔵品はその1のみ。

(土浦警察署)

 
昭和11(1936)年まで使われていた土浦警察署の建物。現在のファミリーマート付近。

(土浦大洪水)亀城公園の惨状

 
亀城公園の浸水状況。本丸を残して水に囲まれ、二の丸まで船で乗り入れられた。絵葉書「(土浦町大洪水)亀城公園の惨状 昭和十三年六月三十日」。

(土浦大洪水)土浦町役場前の濁水 昭和十三年六月三十日

 
写真の土浦町役場は、現在の関東つくば銀行本店(中央2丁目)の場所にあたる。

(土浦中学校陸上大運動会)ウキレーボール

 

(土浦中学校陸上大運動会)一二年のキバ合戦

 
茨城県立土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の陸上大運動会の様子を写した一葉。1・2年生の騎馬戦の様子。

(土浦中学校陸上大運動会)会場入口の景

 
茨城県立土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の陸上大運動会の様子。会場入口の付近を写した一葉。絣の着物に下駄を履いた子どもの見学者もみえる。

(土浦中学校陸上大運動会)観覧人大歓迎の実況

 
茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)の運動会の様子。

(土浦中学校陸上大運動会)剣道教練

 
茨城県立土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の陸上大運動会の様子。防具をつけ、竹刀を手にした生徒たちが並ぶ。背後には大勢の見物客がみえる。

(土浦中学校陸上大運動会)剣道試演

 
茨城県立土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の陸上大運動会の様子。見学者が見守る中、剣道の試演が行われている。

(土浦中学校陸上大運動会)四年の分裂行進

 
茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)の陸上大運動会の様子。四年生の分裂行進を写した一葉。

(土浦中学校陸上大運動会)大角力

 
戦前。茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)の運動会の様子。相撲をとる生徒たち。

(土浦町大洪水)土浦駅より霞ヶ浦を望む(昭和十三年六月三十日) 

 
土浦駅から蓮河原町方面を望む。土浦駅(常磐線)は周囲の土地より高かったことから水没をまぬがれた。中央を横切るのが桜川堤防の桜。

(土浦町大洪水)土浦祇園町通りの惨状(昭和十三年六月三十日)

 
祇園町(中央二丁目付近)の被害状況。服の裾をまくって歩けるようになった時期の撮影。

(土浦町大洪水)土浦小学校の惨状(昭和十三年六月三十日)

 
昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。右手は土浦小学校。

(土浦町大洪水)土浦町川口(昭和十三年六月三十日)

 
川口川の被害状況。人々は船上から建物の2階に出入りをしている様子がわかる。右手に三ツ輪銀行の倉庫が映っている。手前は流れてきた畳であろうか。

(土浦町大洪水)土浦町川口の光景(昭和十三年六月三十日)

 
川口川の河口付近の被害状況。左手の建物に沿って避難用の小舟が並んでいる。

(土浦町大洪水)鷲ノ宮神社境内の濁水(昭和十三年六月三十日)

 
東崎町の鎮守である鷲ノ宮(鷲神社)付近一帯も水没した。

(土浦八景)錢亀の夕照 Tomiyama

 
旧水戸街道に架かる銭亀橋からみた桜川の風景。社は大町の道祖神社

(土浦名  土浦中学校

 
茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)は、明治38年3月に立田校舎から真鍋台の新校舎に移転した。茨城県技師駒杵勤治により建てられた新校舎は、現在、国の重要文化財に指定されている。

(土浦名所) 櫻川の櫻と土浦橋の橋畔

 
昭和15年(1940)頃の桜川堤の桜と土浦橋の風景。六号国道の敷設により桜川に架橋された「土浦橋」は、昭和9年の完工である。1930年代、桜川堤の桜は土浦の観光名所になった。

(土浦名所) 亀城通り祇園町の一部

 
昭和15年(1940)ごろ。昭和9年に川口川の一部は埋め立てられ、昭和10年に商店街(祇園町)が造られた。当時としては珍しい自家発電、自家水道を供えた近代的な商店街であった。通りの奥に見える建物は豊島百貨店である。

(土浦名所) 水の公園川口町通りを望む

 
昭和15年(1940)ごろの川口川風景。水郷土浦を代表する景観。両岸に柳を植樹して景観整備がなされ、「水の公園」と称された。現在はモール505、高架道になっている。停泊している右側の船には「江戸崎」という文字がよめる。

(土浦名所) 土浦駅前より大和町通りを望む

 
昭和15年(1940)頃の土浦駅前。土浦市役所本庁舎北側から亀城公園方向を望む。行き交う車のなかに乗り合いバスもみられる。右にみえる多田自動車商会は市内でバスを運行したほか、土浦-牛久間に新路線も開設した。

(土浦名所) 土浦亀城公園の一部

 
左側に大正11年(1922)に建てられた忠魂碑、右側に宿り木がみえる。亀城公園では昭和10年(1935)に景観整備が行われ、瓢箪池などが造られ、水郷らしい公園が誕生した。昭和15年ごろの公園風景である。

(土浦名所) 土浦警察本署の全景

 
昭和12年に新築された土浦警察署(立田町の現在地)を昭和15年ごろに撮影したもの。その後、昭和51年10月に現在の建物に改築された。

(土浦名所) 土浦市役所の全景

 
土浦市は昭和15年に土浦町と真鍋町の対等合併により誕生した。現在の筑波銀行の位地にあった旧土浦町役場が土浦市役所となった。

(土浦名所) 本町銀座豊島百貨店前通り

 
豊島百貨店はもともと土浦繭糸市場で、繭の取引が行われない時期に百貨店として売り場を設けていた。昭和11年(1936)に繭糸市場が閉鎖されてからは百貨店として一本化された。土浦町の大型店舗の先駆けであった。昭和15年ごろの風景。

(土浦名所)霞ヶ浦の景

 

(土浦名所)霞ヶ浦航空隊水上班の遠望

 
海軍航空隊のうち阿見坂下にある水上班を眺望したもの。霞ヶ浦に面した敷地に格納庫などがみえる。

(土浦名所)霞ヶ浦土浦入の景

 
川口川の河口。中央には汽船と思われる船などがいくつか浮かぶ。左側の建物は霞ヶ浦海軍航空隊汽艇乗り場。

(土浦名所)霞浦の景

 

(土浦名所)亀城公園 樓門

 
土浦城櫓門。手前の堀は明治時代に埋められたが昭和9年の公園整備に際して最掘削された。

(土浦名所)亀城公園寄り木

 
クロマツの樹幹にエノキがが着生した共生木。昭和33年県指定文化財になるが、松くい虫被害により伐採された。

(土浦名所)亀城公園寄り木

 
クロマツの樹幹にエノキがが着生した共生木。昭和33年県指定文化財になるが、松くい虫被害により伐採された。

(土浦名所)亀城公園原修次郎先生銅像

 
衆議院議員の原修次郎は茨城県で初めて大臣(拓務大臣、のちには鉄道大臣も歴任)の椅子に座った人物である。

(土浦名所)亀城公園原脩次郎先生銅像

 

(土浦名所)亀城公園城の泉

 

(土浦名所)亀城公園忠魂碑

 

(土浦名所)亀城公園龍頭の松を望む

 
亀城公園のうち旧土浦城東櫓付近。東櫓は明治17年に火災により焼失しており、基壇のうえに礎石がみられるのみである。背後の門は霞門。

(土浦名所)亀城公園樓門

 
土浦城の櫓門(太鼓櫓)を写した絵葉書。

(土浦名所)旧城亀城

 
大正時代。漆喰の剥落や落書きが著しい。昭和15年に屋根漆喰、白壁などの改装工事がおこなわれたが、昭和24年8月31日のキティー台風で破損し解体された。

(土浦名所)旧城址ノ景

 
本丸の堀と土塁ごしに櫓門(太鼓櫓)と旧新治郡役所の屋根がみえる。屋根には薄っすらと雪が積もる。明治時代末から大正時代初期の撮影か。

(土浦名所)桜川の舟遊

 
かつて桜川には貸しボート屋があり、桜の時期や夏に賑わいをみせた。後ろにみえる橋は桜川橋。

(土浦名所)桜川橋通りの景

 
大正12年に完成した桜川橋。土浦町と阿見原の海軍航空隊を結ぶ道路に架けられた、県内初のコンクリート橋であった。

(土浦名所)桜川堤の桜

 
桜川堤の桜は大正・昭和天皇の御大典(即位)記念などの機会に植え継がれ、昭和10年代には新しい桜の名所として数多くの遊覧客で賑わった。写真の橋は匂橋ではないかと思われる。

(土浦名所)小松勢至ヶ峰二十三夜の櫻花

 
二十三夜尊でのお花見の風景。土浦の桜の名所として当地があげられた時期があったようだ。

(土浦名所)小松勢至ヶ峰二十三夜御本堂正面

 
二十三夜尊には勢至菩薩のほかにも鎌倉時代の制作である木造薬師如来坐像及び両脇侍像や木造阿弥陀如来立像があり市指定文化財となっている。

(土浦名所)小松勢至ヶ峰二十三夜御本堂全景

 
二十三夜尊とは勢至菩薩のことで奥殿に安置されている。

(土浦名所)小松勢至ヶ峰二十三夜登り口

 
勢至ヶ峰あるいは勢至ヶ丘と呼ばれるように、霞ヶ浦を眼下に見下ろす高台に位置していた。かつて土浦藩主も当地にあった小亭(垂松亭)をたびたび訪れている。

(土浦名所)小松勢至ヶ峰二十三夜弁天池の風光

 
二十三夜尊近くにある弁天池。

(土浦名所)西施ヶ岡ト汽車進行

 
小松勢至ヶ丘をバックに走る常磐線の汽車(画面右手)。明治時代末~大正時代前半に発行されたもの。

(土浦名所)銭亀橋

 
桜川にかけられた旧水戸街道の銭亀橋。右側が大町(旧城下町)、左側が下高津となる。

(土浦名所)銭亀橋の景

 
旧水戸街道で桜川にかけられた橋が銭亀橋であった。昭和9年に国道の土浦橋ができるまで、土浦と高津を結ぶ主要な橋であった。

(土浦名所)銭亀橋附近の景

 
旧水戸街道の銭亀橋。江戸時代には桜川にかかる唯一の橋であった。土浦八景の一つ「銭亀夕照」に数えられた。

(土浦名所)銭亀橋附近の桜花

 
銭亀橋上流より望む。右側が高津、左側が大町側である。

(土浦名所)第一公園亀城公園の城址

 
昭和24年に台風被害をうけて解体される以前の西櫓の様子がわかる。

(土浦名所)田中八幡宮

 
田中八幡宮の境内前景。右側に鳥居が、左側の松のあいだに本殿がみえる。

(土浦名所)土浦公園

 
都市公園として整備される以前の亀城公園の様子。左側は海軍犠牲者の供養のために建てられた忠魂碑で、右側の建物は新治郡自治会館。

(土浦名所)土浦高等女学校

 
立田町の土浦高等女学校の校舎。現在の土浦第二高等学校。県南女子教育の中心となった学校である。もともとは土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の校舎として使用されていたが、明治38年(1905)の土浦中学校の真鍋台移転により、高等女学校の校舎として使われるようになった。

(土浦名所)土浦桜川橋の清流

 
大正12(1912)年に完成した桜川橋。土浦町と阿見原の海軍航空隊を結ぶ道路に架けられた、県内初のコンクリート製の橋であった。

(土浦名所)土浦市街の一部

 
土浦町の中心部。手前に伸びてくるのが川口川で奥には桜橋がかかっている。写真の右手の道は旧水戸街道で本町・中町・田町である。

(土浦名所)土浦市街ヨリ筑波山ヲ望ム

 
土浦の街の背後に筑波山がみえる。手前には水田が広がっている。中央左よりの建物は料亭「日新楼」か。

(土浦名所)土浦中學校 (寺田書店發行)

 
明治38(1905)年に駒杵勤治によって設定されたモダンなゴシック様式の校舎

(土浦名所)土浦町川口通りの景

 
川にかかる橋は祇園橋で、左側には豊島百貨店(土浦繭糸市場)、土浦警察署と火の見櫓がみえる。川沿い(右岸)にはバラックが並ぶ。

(土浦名所)土浦町全景(其の一)

 
川口川にかかるのは朝日橋。行き交う小船が数多い。画面手前、右川岸の細長い建物は、川にせり出して作られた長屋式の建物。

(土浦名所)土浦町全景(其の二)

 
川口川と桜橋を中心に土浦町の西側を撮影したもの。中央の3階建ての建物は土浦町役場である。手前の左端に見えるのは豊島百貨店(土浦繭糸市場)の屋根。

(土浦名所)土浦町全景ノ一部

 
土浦警察署の火の見櫓から霞ヶ浦方面を望む。前方の橋は朝日橋

(土浦名所)土浦名木宿り木

 
土浦城櫓門の前にあったクロマツとエノキの共生木。

(土浦名所)鷲宮神社

 
東崎町の鷲宮神社の境内。土浦八景の一つ、鷲宮夜雨に数えられた。

(土浦名所)櫻川堤の櫻

 
桜川をゆく幔幕(紅白幕)をはった屋形船。前方の橋は銭亀橋。匂橋(昭和8年)や土浦橋(昭和9年)ができるまで、桜川橋とともに桜川を渡る主要な橋であった。

(土浦名勝)真鍋公園より霞ヶ浦を望む

 
真鍋公園とは真鍋台の総宜園のことで、霞ヶ浦と筑波が一望できる景勝地であり、桜の名所でもあった。正岡子規が水戸街道の旅の途中に立ち寄り「霞ながら春雨ふるや湖の上」の句を詠んでいる(水戸紀行)。昭和9年に開通した六号国道の工事で、中央部が削平され同園はなくなった。

(土浦名勝)土浦尋常小学校

 
土浦尋常小学校(現:土浦小学校)の校舎は、明治44年(1911)に木造西洋風二階建ての建物に建て替えられた。請負人の塚越斧太郎は、土浦中学校の建築にも関わっている。土浦名勝の一つとして紹介されている。

(土浦名勝)名勝川口の閘門

 
川口川閘門は霞ヶ浦からの逆水を防ぐためにつくられた。

(土浦名勝)鷲の宮公園築山

 
大正14年発行の「土浦案内誌」では鷲宮小公園が次のような内容で紹介されている。「土浦(市街地周辺)は四面が水田なので空地が無く、公園地というほどのものがない。鷲宮神社の境内は、老松が生い茂り、高台を設けているため四方の眺めがとても美しい。境内に花園がある。」

(匂橋のたもと)

 
桜のトンネルには中型の雪洞(ぼんぼり)が堤上に、小さな雪洞が数多く吊り下げられている。

(旅館土浦館)霞ヶ浦飛行場 水上班 

 
阿見坂上より霞ヶ浦海軍航空隊の水上班を望む。水上機の訓練が行われた。土浦館発行の絵葉書には桜川堤の桜もあり、周辺の名所を案内したものになっている。現在は陸上自衛隊の武器学校となっている。

(旅館土浦館)桜川の景

 
土浦館は川口川の岸に建つ3階建ての船宿であった。桜の木はまだ細く、植えられてまもないものである。

(旅館土浦館)櫻川の景

 
明治時代末期から昭和時代初期にかけて、土浦の桜川堤防に桜が植樹され、1930年代には桜の名所となる。写真の桜の木はまだ細く、植えられてまもないものである。

〔土浦名所〕霞ヶ浦ノ景

 
広大な葦原が広がる霞ヶ浦の様子がよくわかる。

「かけ緒かけ」

 
経糸を上下させるための仕掛けをつくる。

「かっしゃげ」から「織り」まで

 
経糸をはたおり機にかけて緯糸を通し、筬で打ち込む。

「よりどめ」

 
糸の撚りを安定させ、油分を抜く。

「アブロ」陸上練習機・「アブロ」水上練習機

 
「アブロ」陸上練習機・「アブロ」水上練習機

「シール」飛行艇(水陸両用機)

 
「シール」飛行艇(水陸両用機)

「ハンザ」水上偵察機

 
「ハンザ」水上偵察機

「バイキング」飛行艇(水陸両用機)

 
「バイキング」飛行艇(水陸両用機)

「霞ヶ浦の伝統漁業」(夏)

 
延縄、つくし、張網、ダカッポなど夏の漁法をご紹介します。

「霞ヶ浦の伝統漁業」(秋)

 
大徳網、帆曳船、トロール漁などの秋の漁法をご紹介します。

「霞ヶ浦の伝統漁業」(春)

 
いさざごろひき網、おげ、四手網、たるなど春の漁法をご紹介します。

「霞ヶ浦の伝統漁業」(冬)

 
刺網、淡貝掻き、投網、うなぎ掻きなど冬の漁法をご紹介します。

「糊付け」

 
糸の毛羽立ちを抑え、強度を持たせる。

「糸巻き」

 
糸車を使いから管に糸を巻く。

「糸紡ぎ」

 
糸車をつかって糸を紡ぐ。

「緒巻きに巻く」

 
経糸がたるまないようにしながら巻き取る。

「織りじまい」

 
織り上げた布を切り離す。

「整経」

 
ざらめきや経杭を使い経糸を作る。

「土浦名所」花の名所桜川提

 
桜川の堤防に咲く桜。貸しボート屋があり、人々は船上から花見を楽しんだ。

「土浦名所」霞ヶ浦土浦入の景

 
さまざまな大きさの船が行き交う様子がよくわかる。

「土浦名所」亀城通り祇園市場

 
祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年に町営土浦公営市場の名の下に6月1日に一斉に開店した。当事としては珍しく自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。

「土浦名所」祇園町亀城通り

 
祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年に町営土浦公営市場の名の下に6月1日に一斉に開店した。当事としては珍しく自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。

「土浦名所」祇園町亀城通り

 
祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年に町営土浦公営市場の名の下に6月1日に一斉に開店した。当事としては珍しく自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。

「土浦名所」新国道土浦橋

 
自動車が交通手段になると、旧城下町の曲がりくねった道ではなく、直線的で舗装された道の整備が必要となったた。新国道は昭和7年に高津真鍋間で工事が開始された。土浦橋は桜川に架橋され、昭和9年5月の完成である。

「土浦名所」新国道北門の松

 
城下町以来のメインストリート(陸前浜街道)の屈曲した道を迂回するため、町の西側に国道(旧六国、現在の国道125号線と354号線)が昭和9年に開通した。その国道の中央に残されたのが北門の松。浄真寺前にあったが、昭和12年に台風で倒れている。したがって撮影時期は昭和9~12年の間とである。

「土浦名所」水の公園

 
川口川の一部を埋め立てて昭和10年に祇園町が誕生した。写真は川口川の最も奥となった部分で、そこから先は暗渠になっていた。埋め立て以前は、さらに上流の桜橋まで船が進むことができた。

「土浦名所」川口の景

 
川口川の河口。中央には汽船と思われる船などがいくつか浮かぶ。左側の建物は霞ヶ浦海軍航空隊汽艇乗り場。

「土浦名所」土浦駅

 
海軍航空隊の軍都にふさわしく軍艦型の駅舎である。昭和11年につくられた。

「土浦名所」土浦亀城公園

 
画面左奥に櫓門と忠魂碑がたつ。右側はクロマツにエノキが着生した「宿り木」がみえる。

「土浦名所」土浦亀城公園

 
櫓門方向から現在の博物館方向を望んだ写真。昭和9年に整備されたひょうたん池がみえる。左側にたつのは鉄道大臣原脩次郎の銅像で昭和10年に建てられたが、戦時中に供出された。現在は胸像が再建されている。

「土浦名所」土浦水の公園

 
川口川の風景。両岸に数多くの舟が停泊している。また、岸には柳の木が植えられている。水郷としての風景をよく伝えている。

「土浦名所」土浦東祇園町通り

 
祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年に町営土浦公営市場の名の下に6月1日に一斉に開店した。当事としては珍しく自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。

「土浦名所」土浦驛

 
木造二階建てで、屋上正面には時計塔を設けていた。一階には貴賓室・駅長室・小荷物室・待合室・出礼所が、階上には電話室と会議室があった

「土浦名所」葉紅ヶ丘公園色川三郎兵衛翁銅像

 
色川三郎兵衛は常磐線建設のときに、堤防の機能を供えた線路を湖岸に敷設することに尽力し、町を洪水の被害から救った。この銅像は戦時中に供出され、現在は新しい像が湖畔(港町)に建てられている。

「土浦名所」櫻川の櫻

 
屋形船がでてにぎわう桜川のお花見風景。桜川の桜は明治時代終わりに550mに渡って植樹されたあと、増植を繰り返して桜の名所となりました。

「繭から絹へ」

 
座繰りと綛上げ、織り

「綿切り」

 
綿切りロクロで種と繊維とを分ける。

「筬通し」

 
筬の目に経糸を通していく。

「綛つくり」

 
よこたぐりを回して糸を巻き取る。

6号国道

 
現土浦一中の郁文館入口から真鍋方面を望む。開通後間もない旧6号国道。右側の白い建物が憲兵隊(現市立博物館)。

かすみ人形

 
「かすみ人形」は昭和9年(1934)に創作された土浦の郷土工芸品である。1930年代の土浦は、「遊覧都市」を志向して、東京などからの誘客に積極的につとめていた。そうしたなかで、新たな観光土産品として考案されたのが「かすみ人形」である。「かすみ人形」は、瓢箪を材料とする「ひさご人形」と、田螺を材料とする「たにし人形」の総称である。このうち「たにし人形」は、真鍋町(現土浦市真鍋)の関勝久によって考案された。たにしを材料としている点が水郷をイメージさせる土産品としてふさわしかったことや、殻の屈曲を巧みに活かして造形がなされていることが評価され、やがて「かすみ人形」といえば「たにし人形」を指すほどの人気となった。「たにし人形」は土浦桜川堤の花火や花火競技大会の土産品として重宝されただけでなく、「郷土工芸品」として東京をはじめ日本各地で販売されていった。

かすみ人形(たにし人形) 金棒引き

 
昭和9年(1934)に考案された「かすみ人形」のうち、田螺の殻を利用して作られた「たにし人形」で、「金棒引き」。祭礼の半纏をまとい、背中の「祭」という文字が目を引く。

かすみ人形(たにし人形) 国防婦人

 
田螺の殻を利用して作られた「かすみ人形」で、「大日本国防婦人会」の襷をかけて、日の丸の旗を振る。着物の右袖を模った紙を田螺の殻に貼り付けて、その先に旗をもたせている。昭和13年(1938)10月8日の「いはらき」新聞には、「霞人形も時局色」との見出しで、「時局色豊かな」人形が創作されたことを伝えている。本作品は昭和13年以降に製作されたものと考えられる。

かすみ人形(たにし人形) 汐汲み

 
昭和9年(1934)に考案された「かすみ人形」のうち、田螺の殻を利用して作られた「たにし人形」で、「汐汲み」。天秤棒の先は金色で染め、そこから糸を垂らして桶をつなぐ。細かい細工で丁寧につくられている。着物には汐汲みということで波が表現されている。

かすみ人形(たにし人形) 鳥追い

 
田螺の殻を利用してつくられた「かすみ人形」。黄色の紙を使って編笠を表現し、赤い紐をつけて頭に被せ、三味線を抱えている。着物には大きな紋様があしらわれており、特に目を引く。

かすみ人形(たにし人形) 藤娘

 
田螺の殻を利用してつくられた「かすみ人形」。藤の花を模した糸の飾りがつく。大きめの黒い笠の下に、上目遣いに見上げる女性の白い顔が対照的に表現されている。

かすみ人形(たにし人形) 農夫と家族

 
田螺の殻を利用してつくられた「かすみ人形」。農夫とその家族を題材にしたものである。農夫は肩に鍬をかけている。中央の子守りをする幼子の背中からは、小さな赤ん坊が顔を出している。婦人は絣の着物を着ている。同じような構成をとる「たにし人形」は他にも残り、定番のセットであった可能性がある。

かすみ人形(ひさご人形)

 
「かすみ人形」は昭和9年(1934)に考案された土浦の郷土工芸品である。瓢箪を材料にした「ひさご人形」と田螺の殻を利用した「たにし人形」の総称である。「ひさご人形」の考案者は土浦の日本画家神林双山である。神林は「かすみ人形」を生産するために組織された「土浦郷土工芸研究会」の中心人物でもあった。1930年代に遊覧都市を志向していた土浦町では、水郷の地に相応しい土産物品として「かすみ人形」を売り出すためことに力を入れた。材料となる瓢箪を栽培するため町有地の提供を行ったり、「ひさご人形」を宣伝するための歌も作られた。しかし、材料の瓢箪を栽培する手間がかかった。また、工芸品としての限界もあったようで、茨城工芸展に出品された際には「材料を活かしていないため、面白みがないものになっている」との評価を受けた。材料の入手が容易で、田螺の殻の屈曲を上手に利用した「たにし人形」の方が次第に人気となり、「たにし人形」が主力となっていった。

さつき丸

 
さつき丸の船体。

せんべい製造工場(工場屋外)

 
金来屋商店(創業明治37年)のせんべい製造光景。当時15人ほどの使用人がいて、大八車や自転車で、江戸崎方面まで卸しに出かけた。

せんべい製造工場(工場屋内)

 
金来屋商店(創業明治37年)のせんべい製造光景。当時15人ほどの使用人がいて、大八車や自転車で、江戸崎方面まで卸しに出かけた。

どじょう取り

 
桜川上流の道祖神付近。川幅が広い割には川床が浅く、真菰(まこも)や葦(あし)が茂っていた。春先は魚の動きが活発で、竹ひごで作った「どじょうだる」の中に、タニシをつぶしたものをえさとして入れ、ドジョウをとった。

にぎわう匂橋

 
手前には停泊中の屋形船、橋脚のまわりには沢山のボートが浮かぶ。匂橋には人・人・人‥。匂橋は昭和8年に架設。昭和7年にも遊覧橋の建設計画があったが、財政上の理由から実現しなかった。水郷にふさわしい観桜のために、桜川への架橋は悲願であった。

むいむいはたおり教室活動記録

 
昭和30年代まで土浦地方の農家で行われた「はたおり」について分かりやすく説明いたします。

やぐるまばやし

 
道中を練り歩くときに演奏される曲です。

わかさぎ焼

 
土浦名産わかさぎ焼きの風景。昭和20年代まで長い形の土べっつい(粘土製)で炭焼きを道路沿いで行っていた。衛生上、道路での作業が禁止されて、工場内での電気焼きになった。

わかさぎ焼

 
衛生上道路での作業が禁止となり、工場内での電気焼きとなった。

アイススケート

 
千鳥ヶ池西側のヤツ田にはった氷上で、スケートを楽しむ子供たち。

イ草・燈心の加工と利用

 
イ草を加工してロウソクなどの芯にもちいるまでの工程を説明します。

イ草・燈心の栽培

 
土浦市(旧新治村)上坂田の農家の1年を通して、イ草栽培の方法をご紹介します。

イ草・燈心の歴史

 
かつて新治地区(旧新治村)などで盛んだったイ草栽培の歴史について解説します。

オリンピック聖火リレー

 
第18回オリンピック東京大会の聖火が10月4・5日に土浦市を通過した。土浦市役所での到着式の様子。聖火は日本国内を3コースに分かれてリレーされた。

サイドカー

 
昭和初期の珍しいサイドカー。金昇自動車商会は自動車部品を販売していた。

ツェッペリン伯号

 
ツェッペリン伯号がドイツから飛来(藤吉少佐同乗)。大格納庫(通称、押収格納庫)から引き出されるツエッペリン伯号

ツェッペリン伯号

 
大格納庫の上空を飛ぶツェッペリン伯号。大格納庫は大正13年の建設。

ツェッペリン伯号のエンジン

 
マイバッハムV2水冷式12気筒550馬力のエンジンを5基装着していた。

デパートの提灯

 
桜並木にわたされた提灯には「西部ストア」「「小網屋」とある。いずれも駅前通りにあったデパート。桜の幹に貼ってあるのはポスターか。№397とひと続きの写真のようである。

バスケットボール 選手 土浦高等女学校

 

バレーボール 選手 土浦高等女学校

 

ピクニック風景

 
家族そろってのピクニック。着物姿や洋服姿の子が見える。

マチのにぎわい

 
土浦のマチがにぎわいをみせた大正時代から昭和時代初期にかけての様子を、当時の映像も交えてごらん頂きます。

マチの記憶

 
土浦のマチの想い出をおふたりの方に語っていただきました。マチに川が流れていたころの様子や桜川の花見など、印象深いお話しが続きます。

マチの景観

 
近世城下町の景観を現在の土浦中心市街地の町並みから探ります。マチの周囲には水田が広がっていました。

ムラの景観

 
白鳥町の村落景観を江戸時代の絵図と対比させながらたどります。

モダンなドライバー達

 
大正時代オートバイは欧州系のトライアンフと、アメリカ系のインデアンとハーレーが輸入され、商店でも外交に使われるようになった。これは欧州系のトライアンフ。まだオートバイは珍しい時代。

リレー 職員 土浦高等女学校

 

リンドバーグ機

 
昭和6年8月26日午後2時、カナダ、アラスカ、ベーリング海峡、千島、根室を経て、前人未翔の空路を開拓し、霞ヶ浦に無事着水したリンドバーグ機。

リンドバーグ夫妻

 
帝都(東京)訪問のため土浦駅に到着したリンドバーグ夫妻を歓迎する、世界各国の関係者。

リンドバーグ夫妻

 
帝都(東京)訪問のため、オープンカーで土浦駅前に到着したリンドバーグ夫妻。官民の大歓迎をうけた。

阿部勢州手簡(阿部正弘書状)

 

粟野のおことの餅

 
旧暦2月8日に子どもの成長を祈願して行われる行事です。

粟野の麦わら天王様

 
粟野地区の祇園祭では麦藁や榊で作った御輿が集落のなかをめぐります。

井戸掘り図

 
沼尻墨僊によって描かれたもので、井戸を掘る様子が克明に描かれています。

郁文館の正門

 
郁文館は寛政11年(1799)8月、城内に土浦藩の学問所として設置。天保10年(1839)10月、現在地(土浦一中校内)に改築。昭和62年修復されたが、写真は修復前のもの。

郁文館の正門(文京町)

 
土浦藩の藩校(藩士の子弟教育を行った)の門で、土浦第一中学校の門となっています。

稲こき、種の保存、堆肥

 
脱穀を中心に秋から冬にかけての作業をご紹介します。

茨城県護国神社

 
常磐神社の境内にあった招魂社を開基とし、明治11年社殿が造営され、昭和16年現在の場所に遷座された。幕末の混乱期から太平洋戦争までの県出身戦没者の霊が合祀される。

茨城県真鍋町善應寺全景

 

茨城県土浦日新樓全景(電話土浦一九番)

 
日新楼は中城町にあった割烹で、霞月楼とともに海軍の幹部もよく利用していた。

茨城県土浦日新樓大廣間(電話土浦一九番)

 
日新楼は中城町にあった割烹で、霞月楼とともに海軍の幹部もよく利用していた。

茨城県立土浦高等女学校秋季運動会

 
開会式、もしくは閉会式であろうか。万国旗がみられる。

茨城県立土浦高等女学校秋季運動会

 
スタンプの数字から明治44(1911)年11月11日と思われる。土浦高等女学校は現在の土浦二高にあたる。

茨城県立土浦高等女学校秋季運動会

 
明治44年の運動会。大正時代以降のものと比べると、服装や観客の数に違いがみられる。

茨城県立土浦高等女学校秋季運動会

 
明治44(1911)年の運動会と思われる。袴姿で運動が行われていた。

茨城国体ヨット競技

 
昭和49年の茨城国体夏季大会で、土浦はヨット競技の会場になった。写真は開会式か。色とりどりの旗と整列する選手たち。ヨット競技は総合3位になった。

茨城国体ヨット競技

 
第29回国民体育大会夏季大会は昭和49(1974)年9月8日に開幕した。写真はヨット競技の入場行進の様子。場所は土浦市営総合グラウンド(川口運動公園)。

茨城貯蓄銀行土浦支店

 
昭和3年に中城町(現中央一丁目)に新築。後に常陽銀行土浦西支店となる。

茨城農工銀行土浦支店

 
現水戸信用金庫土浦支店の場所にあった銀行。

印半纏(霞月楼)

 
両衿に「霞月楼」とある。背には「霞月」と大きく表す。霞月楼は土浦の老舗料亭。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(桜井旅館)

 
衿には「桜井旅館」とあり、背には桜の花を模った中に「旅館」の文字が入る。桜井旅館は旧水戸街道沿いの中町(現中央二丁目)に所在した。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(山口薬舗)

 
衿には「土浦中城町/山口薬舗」とある。中城町(現土浦市中央一丁目)は、旧城下町の中心にあたる。背には山形に「三」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(柴沼支店)

 
両衿に「柴沼支店」とある。本店は土浦の老舗醤油店である。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(柴沼商店)

 
両衿に「柴沼商店」とある。背には亀甲に「正」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(柴沼商店)

 
両衿に「柴沼商店」とある。亀甲に「正」の字を配する。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(柴沼醤油・仕立て前)

 
両衿にあたる布地に「柴沼醤油株式会社」とある。背には亀甲に「正」の字が表され、「柴沼」とも大書されている。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(柴沼本店)

 
両衿に「柴沼本店」とある。土浦の老舗醤油店である。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(正木屋呉服店)

 
両衿に「正木屋呉服店」とある。背には丸に「正」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(正木屋呉服店)

 
両衿に「正木屋呉服店」とある。背には丸に「正」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(大儀鐡店)

 
衿には「大儀鐵店」とある。背には出山形に「二」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(大儀鐡店)

 
衿には「大儀鐵店」とある。背には出山形に「二」の字を大きく表す。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

印半纏(大津屋)

 
両衿に「大津屋家」とある。背には出山形に「大」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである

印半纏(銚子屋五兵衛)

 
両衿に「銚五」とあり、銚子屋五兵衛の印半纏である。背には曲尺に「ト」の字が表されている。出入りの庭師が所持したものである。

印半纏(萩原商店)

 
出山形に「半」の字を大きく表す。腰まわりには「原」の文字が表されている。本資料は土浦の大工棟梁が所持したものである。

栄町

 
霞ヶ浦海軍航空隊の誕生をうけて、市内に点在していた料理店を埋立地(栄町)に集め二業指定地がつくられた。

栄町(現桜町二丁目)通り

 
栄町(現桜町二丁目)の洪水の状況。水没した道を舟で移動している様子。

栄町(現桜町二丁目)付近

 
栄町(現桜町二丁目)付近の洪水の状況。前方に救援活動をしている工兵隊の鉄舟が見える。

駅前広場 昭和39年

 
土浦駅前広場の池のまわりでくつろぐ人々。広告付きの背もたれのベンチがずらりと並ぶ様子が印象的。

縁台将棋

 
路上に縁台を出して、将棋を楽しむ子どもたち。やがて大人も加わると熱戦になる。

横廠式水上偵察機

 
横廠式水上偵察機

横利根閘門

 
明治期の利根川改修に伴い、利根川が増水しても霞ヶ浦に逆流しないように、また利根川の増水時にも横利根川と利根川の水位変動を調節して船の航行を可能とするために造られた煉瓦式造複閘式の閘門です。

横利根閘門附近

 
横利根閘門は日本人技術者だけで建設されたもので、7年余りの歳月をかけて大正10年に完成しました。現在もこの閘門は使用されており、平成12年に国指定重要文化財になりました。

岡谷製糸工場全景

 
荒川沖駅近くに工場があった。工場の煙突が林立する風景は養蚕業の全盛時代を象徴している。手前の田んぼは現在住宅地になっている。

岡部洞水

 
土浦藩のお抱え絵師であった岡部洞水を作品を交えてご紹介します。

岡本埋立地の先端

 
岡本埋立地(現川口運動公園)の先端付近。現ヨットハーバー付近に柳があった。

屋形船

 
昭和10年頃、桜川は春の花見や秋の花火大会には、屋形船や霞ヶ浦沿岸各地から漁船が集いにぎわった。

屋根まで水没した蓮河原付近

 
桜川下流にひろがる蓮河原付近の洪水の状況。

乙戸の鹿嶋神社のおまつり

 
鹿島神社のまつりと当屋の役割、大蛇のしめ縄づくりについての記録映像です。

下高津根ガラ道

 
県営ひばり団地入口付近。リヤカーをひく女性と、行商らしいかごを背負った女性。いかにものどかな風景である。

下高津小学校

 
昭和44年8月まで使用されていた校舎。現在はJA県南会館がある。

夏の草取りから稲刈り

 
除草方法と雑草・害虫の種類について説明、稲刈りについてもご紹介します

花ノ桜川

 
匂橋付近を写したものだが、橋はまだ架橋されていない。貸しボート屋がいくつもあった。手前の貸しボート屋の看板は「鈴木」とみえ、造船業を営んだ「鈴木造船所」と思われる。

花ノ桜川銭亀橋

 
銭亀橋を臨時遊覧船がくぐろうとしている。匂橋や土浦橋ができる以前の銭亀橋は、桜川堤でもっとも風光明媚な花見スポッであったと推測される。

花ノ桜川堤

 
昭和7(1932)年に臨水遊歩路が整備され、水際を歩いて散策ができるようになった。水面にはたくさんの貸しボートや木造船が浮かんでいる。

花ノ櫻川堤

 
花のトンネルを行き交う人、堤のベンチで休憩する人、手に風呂敷包みを持ち日傘をさす和服姿の女性などがみられる

花ノ櫻川堤

 
花のトンネルを行き交う人、堤のベンチで休憩する人、手に風呂敷包みを持ち日傘をさす和服姿の女性などがみられる。

花売り行商(大八車)

 
大正10年頃は多くの商人が行商という商法をとった。この行商の車には,鉄製のスプリングが使われており、バネ車という大八車で最新型である。

霞ヶ浦の定期船(昭和初期)

 
あやめ丸その他、定期船の様子。

霞ヶ浦ニ着水セルリンバーグ機

 
昭和6(1931)年8月26日午後2時、アメリカのリンドバーグ機は霞ヶ浦の海軍航空隊水上班に着水した。カナダ、アラスカ、ベーリング海峡、千島、根室を経て、太平洋横断の空路を開拓した。

霞ヶ浦ニ着水セルリンバーグ機

 
昭和6(1931)年8月26日午後2時、アメリカのリンドバーグ機は霞ヶ浦の海軍航空隊水上班に着水した。カナダ、アラスカ、ベーリング海峡、千島、根室を経て、太平洋横断の空路を開拓した。

霞ヶ浦ニ着水セルリンバーグ機

 
昭和6(1931)年8月26日午後2時、アメリカのリンドバーグ機は霞ヶ浦の海軍航空隊水上班に着水した。カナダ、アラスカ、ベーリング海峡、千島、根室を経て、太平洋横断の空路を開拓した。

霞ヶ浦海軍航空隊絵葉書 丙

 
絵葉書袋「霞ヶ浦海軍航空隊絵葉書 丙」。「戦闘機」「陸上偵察機」「水上偵察機」「艦上偵察機」「艦上攻撃機」「飛行艇」の写真絵葉書がおさめられていた。

霞ヶ浦海軍航空隊本部

 
海軍航空隊本部(現在の茨城大学農学部にあたる)の正門。

霞ヶ浦海軍飛行場 アストラー飛行機及パラシウト

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦海軍飛行場 アストラー飛行船六百五十馬力

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦海軍飛行場 アストラー飛行船六百馬力長四十二間

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦海軍飛行場 アプロ水上飛行機百二十馬力

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦海軍飛行場 アプロ飛行機百二十馬力

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦海軍飛行場 エスエス飛行船三百五十馬力 

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦海軍飛行場 エフ水上飛行機七百五十馬力

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦海軍飛行場 十年式三葉雷撃用飛行機四百五十馬力

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。大正10年に開発された十年式艦上戦闘機に続いて、雷撃機と艦上偵察機がつくられ、いずれも十年式と冠した。

霞ヶ浦海軍飛行場 十年式偵察機二百五十馬力

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。大正10年に開発された十年式戦闘機をスケールアップしたのが十年式艦上偵察機である。第1号機は大正11年1月に完成。

霞ヶ浦海軍飛行場 十年式偵察用飛行機三百馬力

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦海軍飛行場 十年式飛行機ト各飛行将校

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。十年式とは大正10(1921)年に三菱内燃機製造会社によってつくられた艦上戦闘機。

霞ヶ浦海軍飛行場 水陸両用シュウール四百五十馬力

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦海軍飛行場 水陸両用バイキング四百五十馬力

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦海軍飛行場 着陸セントスル十年式三葉飛行機

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦海軍飛行場 中央納庫内の各飛行機

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。中央格納庫の建設は大正12(1923)年の半ばごろとされる(『阿見と予科練』より)。

霞ヶ浦海軍飛行場 雷撃用クック飛行機二百四十馬力

 
絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。

霞ヶ浦大師講

 
阿見町若栗の善照寺を一番とする霞ヶ浦大師講をご紹介します。

霞ヶ浦農業倉庫

 
旧イトーヨーカドー付近。土浦藩時代には、領内の年貢米の陸揚げ場所であった。

霞ヶ浦白魚漁

 
水平線にシラウオ漁をする帆引き船がみえる。

霞ヶ浦飛行場格納庫

 
霞ヶ浦臨時航空術講習部開設の大正10年(1921)4月頃は,天幕張りの格納庫が建てられ、飛行機が収容された。「(帝国軍用飛行機) 霞か浦飛行場納庫」

霞ヶ岡十字路付近

 
土浦日大校付近の十字路。鹿島参宮バス(定期)や、霞ヶ岡バス停留所の標札も見える。正面前方の森は、小松方面。

霞浦より見たる筑波山

 
霞ヶ浦より見た筑波山。船は実写ではなく、描かれたものと思われる。

霞浦海軍飛行場  拾六枚壹組 金貳拾銭

 
霞ヶ浦海軍航空隊の絵葉書袋で表側には航空隊の複葉機が描かれている。裏側に「土浦富山発行」の印と「拾六枚壱組 金二十銭」とある。

海軍航空廠への動員職員女学生集合写真

 
昭和19年以降の学徒勤労動員により、土浦高等女学校の3・4年生も第一海軍航空廠に動員され、飛行機製作修理その他の作業に従事した。時には徹夜で作業がおこなわれた。

海軍道路敷島町 昭和十三年六月三十日 茨城縣土浦町大水害ノ賓況

 
阿見の海軍航空隊を結んだ海軍道路(現在の国道125号線)の状況

海軍道路敷島町 昭和十三年六月三十日 土浦町大水害の実況 

 
昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。敷島町は現在の桜町一丁目にあたる。

海蔵寺(沖宿町)

 
室町時代に小田城主小田治朝が建てたお寺で、県指定文化財があります。

絵はかき 茨城県真鍋町 善應寺

 
絵葉書袋。善應寺は真鍋町にあり、幕末の勤皇の志士佐久良東雄が住職をつとめた寺でもある。

絵葉書袋「土浦海軍航空隊 飛行練習生生活写真 第二輯  昭和拾八年九月二十四日検閲済」

 
「土浦海軍航空隊 飛行練習生生活写真 第二輯 昭和拾八年九月二十四日検閲済」絵葉書袋。

絵葉書袋「土浦海軍航空隊 飛行練習生生活写真」 

 
「土浦海軍航空隊 飛行練習生生活写真 第一輯 昭和拾八年九月二十四日検閲済」とある。昭和17年に検閲・発行された土浦海軍航空隊の絵葉書はカラーであったが、こちらはモノクロである。

開会ノ辞 土浦高等女学校

 

開校当時の土浦小学校

 
明治6年、瀧泉寺(現中央二丁目)の建物を使用し開校。開校当初の校名は第一大学区新治県第二十八番中学区土浦町一番小学。

開隊当時の搭乗員たち

 
霞ヶ浦海軍航空隊開設直後の大正13年、練習機を前に記念撮影。中央白衣服は本市在住であった菊地朝三(後の海軍少将)。

凱旋祝塔と本町

 
中城町(現中央一丁目)入口に建てられた日露戦争の凱旋祝塔と本町の町並み。前方は桜橋。建物は中清(現ヤマハル)。

外西町通り(現大手町)付近

 
外西町通り(現大手町)付近。向かって右の石垣は現一中地区公民館のところ。

外輪船

 
川口川を進む通運丸。外輪船は東京(隅田川)と銚子間に就航していた。日本内国通運の外輪船通運丸が霞ヶ浦航路を開いたのは明治20年代である。

鎧姿の土屋正直候兄弟

 
左が土屋正直・右がのちに夭折した弟。正直は大正元年東宮侍従兼式部官に任ぜられ、同10年に摂政宮殿下(昭和天皇)御外遊のお供をする。背景の建物は旧三ツ輪銀行倉庫(現常陽銀行土浦駅前支店付近)。

株式会社 常陽銀行 土浦支店

 
常陽銀行は、明治11年第五十国立銀行として創立。大正時代に株式会社五十銀行、昭和10年に常盤銀行と合併し常陽銀行となる。現在まちかど蔵野村に隣接する桜橋駐車場となっている。

官幣大社鹿島神宮 二ノ鳥居

 
鹿島神宮境内の入り口部分に位置する鳥居で、この絵葉書では朱塗りの木造となっているが、現在は石製のものである。なお一ノ鳥居はさらに西方に位置した。

干網風景

 
大徳網の干網(ほしあみ)風景。

観音寺(神立町)

 
鎌倉時代末期から南北朝時代に作られた薬師如来立像は県指定文化財です。

観光の土浦 亀城公園天主閣

 
天守閣とあるが実際には土浦城西櫓のことである。

観光の土浦 土浦亀城公園 忠魂碑

 
海軍の犠牲者のために建てられた忠魂碑。左側には昭和9年に整備されたひょうたん池がある。

関 信臧

 
土浦藩の砲術指南役を代々勤めた関家。藩校郁文館の建設にも尽力した関信臧をご紹介します。

関公父子之墳墓(茨城県真壁郡河内村大字関館)

 
筑西市(旧関城町)関館所在の国指定史跡関城跡に残る関宗祐父子の墓です。1341(興国3)年つくば市の小田城を出た北畠親房は、この城を拠点に南朝勢力の結集を図りますが、1343年に戦いに敗れ、城は落城しました。現地には今もこの石造宝篋印塔のほか、北朝方が城攻めで掘ったという坑道の跡が残されています。

関東銀行開店風景

 
昭和27年10月1日、川口町900番地に開店。旧小網屋の西側にあった。後の昭和44年9月に中央二丁目に移築。

関流炮術

 
土浦藩の炮術指南役を勤めた関家と関流砲術について解説いたします。

帰りばやし

 
祇園祭3日目に演奏されるお囃子です。神輿を神社に戻したあと、集落へ帰るときに演奏されます。

亀城に船を乗り入れる

 
亀城公園の浸水状況。本丸を残して水に囲まれ、二の丸まで船で乗り入れられた。絵葉書「(土浦町大洪水)亀城公園の惨状 昭和十三年六月三十日」

亀城公園での桜まつり

 
道路側から櫓門と東櫓跡をのぞむ。土塁上にはお花見をする人の姿がみられる。お堀には桜まつりの雪洞がたちならび、子どもたちはつりを楽しんでいるようである。

亀城公園の宿り木

 
向かって左が宿り木(寄り木)。手前の人物らは海軍関係者と思われる。「土浦公園 寄り木(松に榎)」

亀城公園の宿り木

 
クロマツの樹幹にエノキが着生した共生木。昭和33年県指定天然記念物となったが、マツクイムシのため枯れて伐採、昭和59年県指定解除。

亀城公園西櫓(矢倉)

 
西櫓は、昭和24年(1949)8月31日のキティー台風で破損し、危険となり解体された。

亀城公園東櫓(矢倉)

 
元和6(1626)~7年に、土浦城主西尾氏が建てたと伝わる東西櫓のひとつ。東櫓は明治17年3月の旧本丸館の火災の影響をうけ、取り壊された。

亀城公園東櫓と櫓門

 
右後方は東櫓、左側が櫓門。櫓門は2階で時を告げる太鼓を打った関係で、太鼓櫓とも呼ばれた。

亀城青年会

 
原脩次郎の当選を祝う亀城立憲青年会本部。会は茨城県最初の大臣原脩次郎を支持する政治団体。原は大正9年の選挙で憲政会より立候補したが、政友会系の選挙干渉により落選。そのため土浦町の有志により会が発足。活発な運動が続けられ、昭和5年には流血暴行事件なども。

亀城通り

 
昭和11年にできた土浦駅から国道までの道。左の鉄骨の火の見櫓は当時土浦警察署(現日本生命ビル)のところ。「『土浦名所』土浦東祇園町通り」

亀城通り開通風景

 
昭和11年4月桜橋から6号国道まで開通した道路。祇園町の誕生とあわせて、土浦駅から6号国道まで直通の大通りとなった。亀城プラザ前の通り。右に亀城公園、左に土浦拘置所。「昭和十一年四月開通 土浦亀城通り(其一)」

祇園町 霞デパート屋上より武蔵屋を望む 昭和39年

 
霞デパート屋上(現在は駐車場)より土浦駅方面を望む。正面が武蔵屋。左手が祇園町で、現在は高架道路になっている。

祇園町 昭和39年

 
霞デパート屋上(現在は駐車場)より。左側に仲田写真機店。左手に祇園町仲見世の入り口。、現在は高架道路。

祇園町通り 昭和十三年六月三十日 土浦町大水害の実況 

 
昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。祇園町通りは国道と土浦駅を結ぶ道路沿いに新たに作られた商店街である。

休戦祝賀行列

 
第一次世界大戦休戦祝賀の旗行列が土浦地区裁判所前を通っているところ。

救護班ノ活動 昭和十三年六月三十日 茨城縣土浦町大洪水ノ賓況

 
海軍航空隊救護班の応援による炊き出し。絵葉書「救護班ノ活動 昭和十三年六月三十日 茨城縣土浦町大洪水ノ賓況」

救護班ノ活動 昭和十三年六月三十日 土浦町大水害の実況

 
災害対応のため霞ヶ浦海軍航空隊の応援を得た。土浦駅前での炊きだし風景である。

旧国道6号線

 
開通後間もない下高津3丁目付近の様子。右側は常福寺・紅葉ヶ丘公園。遠景は都和方面の台地。

旧国道6号建設現場

 
旧六号国道(当時は新国道と呼んでいた)の建設現場。真鍋町の愛宕神社の台地を切り開き、トロッコでその土を運んでいる現場。

旧三ツ輪銀行裏通り

 
三ツ輪銀行(現常陽銀行駅前支店)の三ツ輪倉庫通り。左岸の三階建ての建物は土浦館(旅館)。

旧新治地方事務所 昭和42年6月 

 
大正2年に土浦城跡内に新治郡役所として建てられた洋館。その後現在の常陽銀行土浦支店の位置に移され、昭和44年に解体されるまで合同庁舎等として利用された。

旧水戸街道

 
等覚寺入口付近から田宿町(現大手町)通りを望む。道路は子どもたちの格好の遊び場であった。

旧水戸街道赤池付近

 
赤池入り口付近の風景。両側の松並木は、水戸街道をしのばせるが、今はない。両側の建物も人物も、のどかな昔の国道をしのばせる。

旧石器時代

 
花室川流域の南台地にある宮前遺跡からは、打製石器がみつかっています。土器の無い時代の生活の道具です。

旧筑波街道

 
手前の斜めの道路が旧筑波街道。遠く霞ヶ浦と土浦市街方面を望む空撮。

旧土浦中学校本館(真鍋)

 
旧制中学校の本館で土浦第一高等学校の敷地内にあります。国指定重要文化財です。

旧土浦藩士奉献青銅灯篭

 
土屋家宝物殿の竣工を祝って旧藩士奉献

旧東村役場(大正時代)

 
大正8年3月竣工の東村役場。旧陸前浜街道沿いの東小学校隣りにあった。東村は昭和14年に土浦市に合併し、この建物は土浦市農協東支所として中村西根132番地に移築。

旧匂橋

 
匂橋を上流から望む。右端は市役所に至る道路で、手前に排水機の取水口がみえる。

旧祗園町通りの冠水

 
土浦郵便局屋上からみた豊島百貨店方面の冠水状況。

牛耕

 
昭和初期、田畑の耕耘(こううん)に畜力を利用するようになり、万能(まんのう)や鍬(すき)の重労働から開放されると同時に、能率もぐんとあがった。万能・鍬時代は1日あたり0.5アール程度だったが、牛で20アール、馬で30アール位耕すことができるようになった。

牛乳配達車

 
搾乳して殺菌したものをびん詰めにし、各戸へ配達していた。土浦には八木下、真鍋に石引、下高津に高橋、西根に中村と、各牧場があった。

玉子買い(かつぎ)

 
赤池(現真鍋四丁目)付近を歩く玉子買い。天秤棒を使い、農家から玉子を買い集めて問屋に運んでいた。後に自転車を利用するようになったが、当時は自転車もまだ少なかった。

琴平神社(中城) 昭和39年 

 
左手に琴平神社、右手に不動院。琴平神社境内には江戸時代に沼尻墨僊が塾を開いていた。墨僊の遺徳を偲んだ退筆塚(市指定文化財)が境内に現存。

近世の商業

 
城下町土浦の発展と江戸時代の商業について解説した映像です。

空から見た土浦市街

 
川口川を埋め立てて祇園町ができたことがよく分かる一葉。戦後に制作されたもの。

空禅寺(手野町)

 
境内には室町時代前期から中期にかけての五輪塔が残されています。

空中より俯瞰したる土浦街

 
土浦市街地を東側より望んだ航空写真。手前を流れるのが桜川で、右奥に筑波山がみえる。

軍艦型の旧土浦駅舎

 
昭和11年10月に完成した土浦駅舎(昭和56年12月まで利用)。中央の時計塔の左右に伸びる屋根が、上り方面に向かう軍艦の形をしているようである。昭和58年2月新駅舎(駅ビル)完成。

軍馬の徴用

 
日中戦争の激しくなってきた頃、農耕用の馬が軍用馬として徴発された。徴用会場となる県立土浦中学校まで馬をつれて行くところ。

芸妓をのせた船

 
接岸した船に乗る芸妓がみえる。堤防下の臨水遊歩路や堤の上からは、たくさんの子どもたちがその様子をみている。

激動の昭和時代

 
昭和初期の町村合併と第二次世界大戦を中心に戦前の土浦をふり返ります。

 月岡芳年画 魁題百撰相 土屋惣蔵

 
魁題百撰相は、血みどろ絵として知られた月岡芳年の代表作である。解題によると「膳城素肌攻め」の場面を描いたようだが、史実とは若干異なるものとなっている。冒頭には土屋惣藏のことを「駿遠三(駿河・遠江・三河)の勇兵」と記している。

県立土浦高等女学校(現土浦二高)の制服

 
大正8年ごろの生徒たちの袴の裾には、白いテープが縫い付けてあった。

県立土浦高等女学校校舎

 
明治時代の校舎で、元は県立土浦中学校で使用。手前の池は養魚場で、学校周辺は民家がまばらだった。現在は県立土浦第二高等学校。

県立土浦中学校

 
校舎完成後間もない県立土浦中学校(現土浦第一高等学校)。・設計は県技師駒杵勤治。昭和51年国の重要文化財(建造物)に指定。

県立土浦中学校

 
県立土浦中学校(現土浦第一高等学校)上棟式の様子。

県立土浦中学校ボート練習

 
霞ヶ浦での練習風景。土浦中学校(現土浦第一高等学校)には5隻のボートがあり、毎年のクラス対抗ボートレースは市内の名物行事であった。

見世物小屋

 
内西町(現裁判所前)の通りにかかった見世物小屋。祭礼や花見の時期に建てられた。ほかに娯楽も少なかったので、入場者は多かった。

原 脩次郎銅像

 
昭和10年、公園が整備された時にたてられた。一色五郎作。明治41年から衆議院議員を6期、昭和6年4月拓務大臣、同年9月鉄道大臣。写真の銅像は戦時中供出され、現在の胸像は戦後つくられたもの。

原色版 空界之偉力 帝国軍用飛行機 霞浦飛行場撮影 八枚壱組

 
霞ケ浦海軍航空隊の飛行場で撮影された軍用飛行機の絵葉書集。全8枚入。

古墳時代(後期)

 
宍塚古墳群は桜川下流の丘陵地帯に、愛宕山古墳群は天の川上流の丘陵地帯にあります。

古墳時代(前期)

 
霞ヶ浦を見下ろす手野台地につくられた古墳時代前期の前方後円墳と前方後方墳です。

古墳時代(中期)

 
栗崎遺跡は滑石製模造品などが出土した祭祀遺跡で、古墳時代のまつりの様子を知ることができます。

戸長役場

 
明治17年に、前川町にあった土浦藩の穀倉の敷地(現関東つくば銀行)に、統合した戸長役場が建てられた。

五浦

 
「日本美術院発祥の勝地、潮の干満に陰顕する奇岩怪石は常磐海岸美の極致を示している」。北茨城市の五浦海岸の絵葉書。

五十銀行

 
右から二軒目が中城町にあった五十銀行。後に常陽銀行土浦支店となる。手前は野村砂糖店(現まちかど蔵野村)。

五十銀行本店

 
レンガ造りとなった五十銀行本店。明治11年第五十国立銀行本店として土浦藩士族によって創立。大正時代に株式会社五十銀行。昭和10年、常盤銀行と合併し常陽銀行となる。現桜橋駐車場。

五総明神(五社明神)

 
平国香を祀り、土浦の古社といわれていた。明治時代に田中八幡神社に合祀され、この地には平国香の碑が建っている。「土浦五総明神の景」

御絵はがき 土浦町 割烹 霞月楼

 
絵葉書袋。「御絵はがき 土浦町割烹霞月楼 電話十六 百三十番」

御大典記念祭礼

 
天皇陛下の即位を慶祝して行われた祇園祭。金大醤油店前で、中城町の山車の前に勢ぞろい。写真に「御大典記念」と記されている。

公会堂に避難した人々

 
避難中の公会堂内部(現常陽銀行土浦支店)のようす。

勾橋付近」から旧市内をのぞむ

 
栄町(現桜町二丁目)。桜川を背にして見る洪水の状況

広告をのせた舟

 
匂橋の下に「さくら音頭」とかかれた看板をのせた小舟。「さくら音頭」は、昭和9(1934)年にビクター・コロムビア・ポリドール・テイチクの各レコード会社から、競作のかたちで発売された流行歌。コロムビア社では振付の講習会も開催。

弘道館記

 
現在は、昭和28年(1953)に復元された八卦堂内にあり、高さ3.18m、幅1.91m、厚さ24cmの大理石製の碑である。徳川斉昭の撰による弘道館の教育綱領が刻まれている。昭和20年の戦災で一部破損したのを、現在は補強している。

紅葉ケ丘公園の色川三郎兵衛翁銅像

 
昭和12年11月常福寺境内(旧紅葉ヶ丘公園)にたてられた色川三郎兵衛の銅像(一色五郎作)。戦時中供出。昭和55年11月21日川口運動公園東端に復元(一色邦彦作)。いずれも川口川閘門(三郎兵衛が尽力)を向き、市街地を望む姿。

紅葉ヶ丘より土浦市街展望

 
下高津常福寺紅葉ヶ丘より、下高津の町並み越しに、桜川の北岸に広がる土浦市街を望む。「紅葉丘より土浦市街を望む」

綱引 一二年 土浦高等女学校

 

綱引 三四年 土浦高等女学校

 

荒川沖駅

 
右手前が駅舎で、上りホームから牛久方面を望む。上空に霞ヶ浦海軍航空隊の複葉練習機。荒川沖駅から霞ヶ浦海軍航空隊まで軍用資材の輸送のため、約2キロの引込線が敷かれていた。

荒川沖競馬場

 
昭和初期,畜産振興のために,朝日村畜産組合が主催して荒川沖駅の東側に開かれた。当時操業中の製糸工場、岡谷館の煙突が見える。

荒川沖競馬場

 
昭和初期,畜産振興のために,朝日村畜産組合が主催して荒川沖駅の東側に開かれた。観覧席や馬券売り場もあった

荒川沖宿通り

 
旧6号国道郵便局のところから土浦方面を望む。右側手前は染物屋(現弘華中華料理店)であった。まだ路面は舗装されていない。

荒川沖小学校

 
昭和23年9月に竣工した校舎。昭和45年に現在の校舎に改築された。昭和23年9月1日、旧朝日村の一部が土浦市へ合併。

荒川沖郵便局

 
改装した荒川沖郵便局舎。郵便配達用の自転車が見える。

荒川沖旅籠(荒川沖町)

 
水戸街道沿いにあり、旅人に宿の提供をおこなっていました。

行き交う舟

 
桜川の花見を特徴づけるのは、水上からの観桜である。和船・遊覧船・屋形船・貸しボートなど、大小さまざまな船が水面を行き来した。時には霞ヶ浦や利根川水系の漁船もやってきたといわれる。 高津側の堤防から下流の方向を望んだ写真で、右端は匂橋。

高井城跡

 
下高津四丁目9番付近の様子。中央の松の木の所が高井城跡。手前の建物は高津の八坂神社で、現在は神社と高井城跡の間に国道六号バイパスが通っている。

高井城跡(上高津町)

 
東寺百合文書に登場する高井という地名は高津を指し示すと考えられています。

高翁寺(中央二丁目)

 
高翁寺には江戸時代の蘭学者であり、土浦藩士であった山村才助の家の墓があります。

国体ヨットレース

 
昭和42年、霞ヶ浦における第22回国体ヨットレース。昭和49年にも茨城国体のヨットレースが開催された。

国道北門の松

 
浄真寺の前にあった松で、名松、北門の松(通称お船松)。昭和9年開通の新国道工事でも、国道中央に残された巨松であったが、昭和12年の台風で倒れてしまった。

国道北門の松

 
浄真寺の前にあった松で、名松、北門の松(通称お船松)。昭和9年開通の新国道工事でも、国道中央に残された巨松であった。

国宝土浦等覚寺の鐘

 
等覚寺の銅鐘は戦前、国宝の指定を受けていた。現在は国指定重要文化財。宍塚般若寺や潮来市長勝寺の銅鐘とともに、常陸三古鐘のひとつに数えられている。八田知家の寄進したもので、元は極楽寺にあった。

今泉城跡(今泉町)

 
中世の城跡として、当時の形態をよく留めている城の一つと言われます。

佐野子の盆綱

 
藁製の竜で先祖の霊を迎えるこの地方独特の伝統行事です。

最新型定期船やよい丸

 
やよい丸の船体。

歳晩の恒例醤油大売出し

 
「金大」大久保武兵衛商店の歳末の売出し。醸造元から小売店への荷出し。国分勘兵衛の醤油は江戸城御用であった。国分商店の東京進出によりそれを引き受けたのが「金大」。

桜まつりーその1ー

 
お花見の風景。右側の橋は土浦橋。桜川の堤防は、花のトンネルが数kmにおよんでいた。「土浦桜川の桜」

桜まつりーその2ー

 
花見の風景。匂橋の上は人々であふれていた。

桜川と藤塚山

 
桜川堤防から見た藤塚山(現市役所)方面。右の森は現在の沼地公園。その下の土手の向う側は県営ひばり団地になっている。

桜川の花見

 
下高津側から大町の大曲り(松林寺墓地)あたりを望む。モーターボートが走っている。

桜川の桜まつり

 
堤防も川も人々でにぎわった。貸ボート屋も数件あり、ボートをこぎながらの花見に人気があった。

桜川の桜並木と田んぼ

 
左手には桜川の桜並木。右手には田んぼと建物、遠方には大きな松がみられる。

桜川の舟遊

 
桜川でボート遊びを楽しむ人たちの姿。

桜川仮橋

 
昭和13年の洪水で橋が流されている様子。

桜川仮橋

 
現在はないが大正時代には,阿見町に行くための重要な橋。

桜川橋

 
桜川橋(現国道125号)を富士崎町から桜町一丁目方面を見る。橋の中央にモダンな外灯があった。中央2階建ての洋館は久松医院。

桜川橋

 
桜川の増水状況。桜川橋の橋げたいっぱいの濁流。通称海軍道路(現国道125号線)が桜川にかかる橋が桜川橋。「桜川橋」

桜川橋ぎりぎりの濁流

 
桜川の増水状況。桜川橋の橋げたいっぱいの濁流。通称海軍道路(現国道125号線)が桜川にかかる橋が桜川橋。

桜川新堤の補強工事

 
土浦橋上流堤の補強工事。海軍航空隊の応援を得て行われた。左前方の堤防は桜川右岸。

桜川堤の夜景

 
夜の桜川堤の桜。ライトアップした中をそぞろ歩いてお花見ができた。

桜川堤ノ夜景

 
夜の桜川堤では大小の雪洞(ぼんぼり)に灯りがともされ、水面に桜と灯りが映える美しい風景であった。当時の新聞記事は「花と水と灯」の三重奏だと伝えている。

桜川堤観桜会

 
大町の道祖神前での花見の宴。中折れ帽子やハンチングの、当時の粋な姿がみられる。「花の土浦 桜川道六神花の□観会」

桜川堤防の道祖神付近

 
桜川堤防の道祖神付近の様子。大町消防組による防御作業。絵葉書「桜川堤防道祖神附近防禦真景大町部」

桜川堤防河童洞附近防禦真景中城部

 
明治43年の洪水で桜川堤防に出動した中城町の消防団の人々。堤防の決壊を防ごうとしている。

桜川風景

 
初夏の桜川。桜川排水機場付近での子供の水遊び風景。まだ匂橋はできていない。

三好貝ボタン工場

 
大正4年桜川左岸土手下に創業(創業者は三好亀久寿)。霞ヶ浦で大量にとれた烏貝(からすがい)を原料に貝ボタンを製造。後にアメリカや中国から海の貝を輸入し高級貝ボタンをつくり、海外へ輸出。写真は工場内部。

三好橋上(現桜町一丁目)から

 
三好橋上(現桜町一丁目)から見る洪水の状況。桜川から濁流が市街に流れ込んでいる。「三好橋上ヨリ」

三好橋上ヨリ

 
三好橋上(現桜町一丁目)から見る洪水の状況。桜川から濁流が市街に流れ込んでいる。「三好橋上ヨリ」

 三石紋入り刀子・墨架

 
土浦藩土屋家の家紋である三石紋がほどこされた刀子と墨架である。土浦藩士安藤家伝来の品。安藤家は、代々権兵衛を襲名し、二代権兵衛以降、基本的に土浦詰め藩士として幕末まで土屋家に仕えた。

 三石紋入り盃

 
土浦藩土屋家の家紋である三石紋がほどこされた盃で、土浦藩士家に伝わる例がみられる。本作品は、土浦藩士安藤家伝来の品。安藤家は、代々権兵衛を襲名し、二代権兵衛以降、基本的に土浦詰め藩士として幕末まで土屋家に仕えた。

山水閣(料亭)

 
現桜町一丁目付近。右側3階建ての建物が山水閣、左側2階建ての建物が新治病院。中央の池が三好工場の養魚場。

山村才助

 
土浦藩士であり地理学者でもあった山村才助。近世地理書の最高峰とされる書物をあらわしました。

桟橋を渡って下校

 
県立土浦高等女学校(現県立土浦第二高等学校)から、生徒が桟橋を渡って下校。絵葉書「土浦大洪水 女学校前大浸水桟橋にて登校 富山発行」 

蚕の飼育

 
孵化(ふか)して間もない蚕(かいこ)である稚蚕(ちさん)に、細かく刻んだ桑をフルイを使って与えているところ。洋服姿は巡回指導の養蚕教師。

蚕糸会の作品展

 
大日本蚕糸会における生糸の出品。土浦尋常高等小学校にて開催。絵葉書「蚕糸品評会陳列場の一部」で、「茨城県生糸同業組合」と記される。

蚕糸大会会場広告塔

 
「祝蚕糸大会 土浦繭市場」とある蚕糸大会会場広告塔。スタンプ「大日本蚕糸会記念 蚕糸品評会 大正六年十月 茨城支会主催」

残飯集めの牛車

 
昭和10年代、養豚家が飼料にする為、街の食堂等からその残飯をもらい集める風景が見られた。

四ツ手網漁

 
桜川大町付近の四ツ手網漁。後方は高津台地。昔は川魚を獲る主たる漁法であった。コイ・フナ・ナマズ・サイ等が獲れた。

四百米リレー 小学校来賓児童 土浦高等女学校

 

市営総合運動場

 
完成して間もない川口運動公園の空撮。周辺にはまばらに家がある程度。

糸操り風景

 
岡谷製糸工場内の作業風景。養蚕業全盛期の操業。

鹿島神社の祭礼

 
真鍋町の氏神は鹿島神社で、毎年9月に祭りが行われていた。現在は8月に行われている。絵葉書「真鍋町祭礼の実況」。

鹿島名所 鎌足公の宅趾

 
鹿嶋市内に現在も残る鎌足神社の旧状を伝える一葉。大化の改新を主導した中臣(藤原)鎌足は、一説によると、鹿島の出身と伝えられ、屋敷跡に造られたのがこの鎌足神社である。藤原氏は鹿島神宮を崇敬し、平安時代にも藤原道長の娘彰子が水晶の玉を奉納している。

鹿島名所 鎌足公ノ宅趾

 
鹿嶋市に現在も残る鎌足神社の旧景。大化の改新で活躍した中臣(藤原)鎌足は、鹿島出身との説があり、この神社は旧宅跡に建立したものと伝える。

式目

 

宍塚小学校

 
旧中家村立宍塚尋常高等小学校(現宍塚小学校)の教師と児童たち。

七夕まつり

 
雨上がりの土浦駅前。ライオンズクラブや青年会議所、法人会の七夕まつりの提灯飾りが飾られている。左は土浦二高生か。

七夕まつり

 
土浦京成百貨店(現在は大徳隣の駐車場)での七夕まつりの出し物。ゴリラやパンダの人形による演奏会。「昭和五十二年度特別参加賞 土浦市 土浦商工会議所」の立て札がある。店内にはおばけ屋敷の出し物もあった。

七夕まつり

 
土浦駅前の七夕飾り。「ツェペリン伯号飛来50周年」の文字が見える。ツェッペリン伯号は、昭和4年(1929)に日本に飛来し、霞ヶ浦海軍航空隊を訪問した飛行船。

七夕まつりのパレード

 
亀城公園内を通過する七夕まつりのパレード。背景に市営プールと土浦小学校の建物がみられる。

七夕まつりのパレード

 
七夕まつりのパレード。左手前が現在のUFJ銀行にあたる。亀城公園の櫓門や帆引船、遊覧船フリッパー号の作り物がみられる。

七夕まつりのパレード

 
中央銀座通りの様子。ジープに乗っているのは七夕むすめ。左手前が現在のUFJ銀行にあたる。櫓門や帆引船、遊覧船フリッパー号の作り物、「湖上まつり」の看板などがみられる。

七夕まつりのパレード

 
亀城公園内を通過する七夕まつりのパレード。左手の土塁上には現在は復元した東櫓と塀がある。

七夕まつりのパレード

 
亀城公園内を通過する七夕まつりのパレード。背景に亀城タクシーの建物がみられる。

手野城跡(手野町)

 
小田氏によってつくられた城です。空堀などが残されています。

種まき風景

 
肥料を施し整地した畑に種まきをしているところ。女性は手ぬぐいの姉さんかぶり、縞の半襦袢(じゅばん)、たすきがけ、紺の前掛けに紺の股引き姿。男性は麦わら帽子に紺の半襦袢、股引き地下足袋姿。

舟で食糧配給

 
土浦駅前通りの洪水の状況。船で食料配給をする霞ヶ浦海軍航空隊の隊員。

十年式艦上攻撃機

 
十年式艦上攻撃機

十年式艦上戦闘機

 
十年式艦上戦闘機

十年式艦上偵察機

 
十年式艦上偵察機

出征兵士を送る

 
戦争が激しくなってきた昭和15年頃。荒川沖の鈴木家での出征兵の見送り.

準備運動 全校 土浦高等女学校

 

商家の団らん

 
商家の団らんのようす。

商店の出荷風景

 
建物は明治34年建築の米穀取引所。その後折箱製造業折清商店となった。運搬は大八車か自転車で、かなり遠方まで配達した。

小学校教師の服装

 
土浦尋常小学校教師の記念写真。

小学校教室風景

 
土浦小学校手工室で、専任の岡田冨美也先生から紙工作の指導を受けているところ。

小松下県道

 
現国道125号線、小松三夜尊下あたりの風景と思われる。道路開通後間もない大正9年10月撮影のもの。

小松下県道

 
大正15年から昭和13年までは路面電車であった常南電車が、この道路の左寄りを走っていた。

小松三夜尊の花見風景

 
小松・勢至ヶ岡三夜尊は桜の名所として賑わった。山桜が多かった。

小松勢至丘の花

 
小松・勢至ヶ岡二十三夜尊は桜の名所として賑わった。人々は眼下に霞ヶ浦を臨みながらお花見をしていたようである。

小切り

 
宵祇園の日の最後に演奏されます。

小田氏と法雲寺

 
中世、筑波山麓から桜川下流域にかけての地域で活躍した小田氏。そのゆかりの地である小田城、藤沢城、法雲寺を訪ねます。

小田城址内を走る筑波鉄道

 
国指定史跡小田城址(つくば市)内を筑波鉄道が走っているところ。小田城は、鎌倉時代から戦国時代末にかけて、この地方に勢力のあった小田氏の居城跡。

小田城址内を走る筑波鉄道

 
国指定史跡小田城址(つくば市)内を筑波鉄道が走っているところ。筑波鉄道廃線後にできたりんりんロードは、史跡の外側に整備された。

小麦の脱穀

 
神立農友会員の共同作業による小麦の脱穀風景。神立農友会は故高野久提唱により、共同による農業の改良と発展を図る目的で大正4年神立地区農家74戸により結成され、全国的にも注目された組織。一般農家で足踏み式脱穀機使用が主流だった時代に機械化をはかった。

小包の仕分け風景

 
土浦郵便局内での小包仕分け作業風景。当時土浦以南の県南各地への小包はすべて土浦局から配達されたので、その数は膨大であった。

昭和11年頃の川口河岸

 
河岸の様子。土浦駅方面に向かって奥の方に、三ツ輪銀行の倉庫(現常陽銀行駅前支店)が見える。

昭和13年の大水害

 
下高津の紅葉ヶ丘公園より水害にみまわれた市街地.。

昭和30年頃の土浦駅前通り

 
遠方の四角い建物はマルニ倉庫。右側の霞ヶ浦通運株式会社の手前が、現りそな銀行にあたる。

昭和39年の桜川のお花見

 
桜川堤防でのお花見風景。「土浦桜まつり」とかかれたぼんぼりがみられる。戦後、第1回桜まつりは昭和25年に開催されている。

昭和時代の土浦幼稚園児

 
園庭のすべり台やブランコで遊ぶ土浦幼稚園児。大正15年にモンテッソーリの「子どもの家」を模範とした園舎と園庭が完成。洋服の子と和服の子とさまざま。昭和5年の園児数は194名。

昭和十三年六月三十日 茨城県土浦町大水害ノ実況 祇園町通り

 
昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。目抜き通りをたくさんの船が行き交っている。

昭和十三年六月三十日 茨城県土浦町大水害ノ実況 真鍋町

 
昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。筑波鉄道の真鍋駅周辺も水没した。

昭和十三年六月三十日 茨城縣土浦町大水害の賓況 真鍋町

 
筑波鉄道真鍋駅周辺の浸水の様子

昭和十三年六月三十日 茨城縣土浦町大水害の賓況 豊嶋文化住宅

 
豊嶋文化住宅(現土浦NTT付近)の浸水の状況

昭和十三年六月三十日 土浦町大洪水の実況

 
絵葉書袋「昭和十三年六月三十日 土浦町大洪水の実況」とある。

昭和十三年六月三十日 土浦町大水害の実況 

 
蓮河原町では屋根まで水がくる被害をうけた。同地では昭和16年にも浸水し、同じ構図で撮られた写真がある。

昭和十三年六月三十日 未曾有の大惨害 土浦町大洪水

 
絵葉書袋「昭和十三年六月三十日 未曾有の大惨害 土浦町大洪水」とあり。

昭和初期の常南電車

 
大正15年10月根崎(現富士崎町)・阿見間に開通した路面電車。昭和3年3月土浦駅乗り入れ。当初利用者の多くは霞ヶ浦海軍航空隊関係者。

昭和初期の土浦を中心とした交通案内図

 
昭和初期の土浦を中心とした「遊覧交通案内」

沼尻墨僊

 
寺子屋の師匠としてだけではなく、地理・天文・絵画と幅広く才能を発揮した沼尻墨僊。現在も土浦の人々から愛されています。

消防団出初式風景

 
大正8年7月中城町消防部は、他部に先駆けてガソリンポンプを購入した。まとい、竹はしご、さすまた、とび口など、破壊消防用具も見える。機械力が不十分であったため、一部破壊消防も行われていた。

醤油醸造工場

 
昭和初年頃の大久保醤油店の製造工場。当時としては新しい設備の工場であった。

上空から見た旧土浦駅付近

 
大正12~15年にかけて耕地整理組合が新市街地造成。桜町二・三丁目辺りは一面の水田。2つの池は三好ボタン工場の養魚場、池の東岸中央の3階建は山水閣、北岸の高い建物は新治協同病院。

上空から見た旧土浦駅付近

 
中央の流れは川口川。手前に朝日橋、その上流に祇園橋。この川は昭和10年に埋立てられ、祗園町が誕生する。

上空より土浦町を望む

 
旧土浦町を中心とした航空写真。画面手前を横断するのは常磐線の線路。向かって左に桜川、右に川口川がみえる。昭和15年は紀元2600年にあたる。

上大津消防組

 
常磐線神立駅前にて、消防秋季点検後の記念写真。当時消防は警察の管下にあったため、サーベルをさげた巡査がいる。「於神立駅前 昭和8年12月6日消防秋季点検後記念撮影」

上大津西小学校

 
新校舎完成直前の旧校舎。旧校舎の後ろに昭和49年完成の新校舎が見える。

上大津東小学校

 
昭和53年3月に新校舎が完成するまで使用された校舎。上大津村は昭和29年11月に土浦市と合併。

城下町土浦

 
土浦城の歴史と城下町の発展について解説した映像です。

常州笠間稲荷一ノ鳥居

 
笠間稲荷神社の一の鳥居。「紋三郎稲荷」「胡桃下稲荷」ともよばれた。

常総学院中学校校舎

 
明治38年10月、渡辺嘉重が下高津常福寺に創立の私学。大正2年3月、鷹匠町(現中央二丁目)に校舎を新築移転(写真はその校舎)。昭和18年12月閉校、のち昭和58年4月常総学院高等学校として復活開校。

常南電気鉄道阿見駅舎

 
常南電気鉄道の終点阿見の駅舎。昭和13年鹿島参宮鉄道バス(現関東鉄道バス)開通後はバス停として利用された。

常南電気鉄道桜川鉄橋架設工事

 
阿見の航空隊への交通手段となった路面電車。昭和3年3月土浦駅まで乗り入れとなる前の架設工事。

常南電車

 
富士崎町地内を走る常南電車

常磐銀行土浦支店

 
川口町(現川口一丁目)にあった大正時代の常盤銀行土浦支店。昭和10年他行と合併して常陽銀行となる。建物は民間に売却された。

常磐線貨物列車

 
現富士崎町付近のガード上を走る常磐線貨物列車。小松から富士崎町方面に向かって撮影したもの。

常磐線桜川鉄橋

 
明治末期から常磐線複線化計画は進められ、大正12年8月30日複線の為の桜川鉄橋が完成。

常磐線桜川鉄橋上の惨事

 
昭和18年10月26日午後6時53分の列車三重衝突事故直後の写真。死者96人、重軽傷者77人の大惨事。

常磐無尽株式会社土浦支店

 
現東日本銀行。大正13年に敷島町(現桜町一丁目)に創立。後に常磐相互銀行・ときわ銀行。

常福寺(下高津二丁目)

 
平安時代に作られた薬師如来坐像は県内でも有数の古い仏像で国指定重要文化財です。

常陽銀行荒川沖支店

 
昭和17年に出張所として開設され、同25年支店に昇格した。写真の建物は昭和28年の建築。

常陽銀行真鍋支店

 
昭和4年に五十銀行の支店として開設。昭和10年に常陽銀行真鍋支店となった。合同庁舎前。

常陽銀行土浦東支店

 
大正8年三ツ輪銀行として大和町に建築。昭和14年常陽銀行に合併、駅前支店となる。

常陸霞ヶ浦 土浦川口の夕照

 
帆柱を立てたまま停泊する高瀬船が印象的な夕暮れの川口川河口。

常陸笠間稲荷 御神樂殿

 
笠間稲荷境内の神楽を舞うため建物。

常陸笠間稲荷 手水舎

 
笠間稲荷神社は1743年に笠間城主井上正賢が社地・社殿を寄進・拡張し、1747年に牧野貞通が笠間城主となり、先例によって祈願所と定め、以降歴代藩主の崇敬を集めた。

常陸官幣大社鹿島神宮 要石

 
御座石、山の宮ともいわれ、鹿島神宮境内奥の樹叢の中にある。石の根が深く、地震を起こすナマズを地中でおさえていると伝えられる。

常陸官幣大社鹿島神宮 樓門

 
水戸藩初代藩主徳川頼房が1634(寛永11)年に造営した朱塗りの門。現在は国指定重要文化財となっている。

常陸官幣大社鹿島神宮大鳥居 大正四年建替用材は下総國香取郡より運搬し來たる 

 
記載面の切手欄には、朱の二重丸内に八のスタンプが押される。写真面の下段に「大正四年建替用材は下総國香取郡より運搬し來たる」と記載されたことから、その後程無い時期の絵葉書と考えられる。

常陸国笠間稲荷神社神苑の一

 
笠間稲荷神社の本殿は1861(文久元年)に弥勒寺音八や諸貫万五郎・後藤縫之助らの手によって再建されたものである。県指定文化財。

常陸三浜名所 平磯海岸の怒濤

 
明治・大正・昭和初期まで平磯海岸は、海水浴場・潮湯治場として関東一円にその名を知られた。明治40(1908)年には、国木田独歩もこの地を訪れている。

常陸鹿島 高天ヶ原ノ鬼塚

 
鹿島神宮の飛び地境内地である高天原の旧景。鹿島灘に面した地で、中央には鬼塚という名前の塚がある。

常陸鹿島名所 かみ山及津の東西の社・鎌足公の宅趾

 
鹿嶋市下生に鎮座した古代の港の守護神をまつる津東西社と鎌足神社の旧景。前者は昭和33(1958)年の国道改修に伴い境内が二分され、昭和35(1960)年に現在の鹿島神宮境内に移転した。後者は、中臣鎌足の父中臣御食子が鹿島の宮に仕えていたといわれることから、鎌足自身も鹿島の出身であるとの説があり、その旧宅にまつられた神社である。

常陸大洗明治記念館

 
この建物は、1929(昭和4)年に土佐出身で宮内大臣であった田中光顕が、明治天皇の威徳をあらわすため、かねてから思い入れの深かった水戸藩内の地に地元有志の援助を受けて建設した。現在は幕末と明治の記念館として公開されている。

常陸那珂湊姥母の懐中

 
旧那珂湊市(現ひたちなか市)の著名な海水浴場を写した一葉。阿字ヶ浦、平磯と共にこの姥の懐(うばのふところ)は、清浄な海水として人気があった。昭和59年には、旧那珂湊市は夏季海水浴客数は全国一となっている。

常陸那珂湊海岸

 
旧那珂湊市(現ひたちなか市)の海岸線を写した一葉。那珂湊周辺の平磯から酒烈にかけての海岸線には、白亜紀層を起源とする岩礁がこのように多く見られる。

常陸那珂湊公園

 
現在の湊公園にあたる。徳川光圀が元禄年間に建てた別荘「夤賓閣(いひんかく)」と、幕末安政年間に建設された水戸藩の郷校「文武館」の跡地を、明治30(1897)年に公園として整備したものである。写真の背景に写るのはクロマツで、光圀が須磨明石から取り寄せたものといわれる。

常陸風土記と常陸国

 
風土記をもとに筑波山・鹿島神宮・常陸国衙など土浦周辺地域の「古代」を解説します。

常陸平磯海岸鰹漁大漁ノ光景

 
平磯は漁港としても著名であり、鮪(まぐろ)や鰹(かつお)を流れ網で捕らえる漁法が幕末に導入されて以降、隆盛を極めた。写真は、漁船から多量に水揚げされた鰹が砂浜に無造作に並ぶ光景をとらえている。

常陸名所 霞ヶ浦の風景

 
霞ヶ浦の水運で活躍した「通運丸」。蒸気機関で船腹左右に各一対の外車を運転し動力とした。

浄真寺(立田町)

 
浄真寺の銅造阿弥陀如来立像は鎌倉時代中期(1261年)の作で、県指定文化財です。

新治郡役所

 
上空からみた新治郡役所。大正時代、木造洋風総二階建ての郡役所が新築された。正面には煉瓦積みの立派な門を備えた当時としては近代的な建物。

新治郡役所

 
大正12年に郡制が廃止され、建物は新治郡自治会館となり、昭和7年現在の常陽銀行土浦支店のところに移設。土浦公会堂として、また戦後は新治地方事務所、県南振興事務所として利用。

新治蚕糸供進会

 
新治蚕糸共進会(建物土浦尋常高等小学校)のイルミネーション。「新治共進会場イルミネシヨン」と記されている絵葉書。

新築された土浦尋常小学校

 
明治44年から昭和40年改築されるまで使用された西洋建築の校舎。

真鍋駅周辺

 
筑波鉄道真鍋駅周辺の浸水の様子。.

真鍋国民学校の奉安殿

 
天皇・皇后の写真と教育勅語を安置した奉安殿。戦後間もなく撤去された。戦時中は、今の小中学校は国民学校と呼ばれた。

真鍋坂道

 
真鍋坂道(陸前浜街道、旧水戸街道松並木)。中央の煙突は金塚醤油工場。右側に松並木。左側に八坂神社の森が見える。

真鍋小学校

 
明治40年に西真鍋から現在地に建てられた校舎。校庭の「真鍋の桜」(県指定文化財)は、この土手に植えられたものが、数次の校舎拡張で校庭の中央に位置したもの。昭和40年新校舎建築。

真鍋小学校の桜

 
真鍋小学校校庭の桜の下での祝宴会。「真鍋のサクラ」は茨城県の天然記念物。樹齢100年を越す5株の桜である。

真鍋小学校の桜

 
校庭中央付近の真鍋の桜。樹下には乗用車と、大人と子どもらしき姿がみえる。家族でお花見であろうか。

真鍋小学校の桜

 
真鍋の桜は、真鍋小学校が明治40年に現在地に移築したときの記念植樹といわれる。昭和32年に県指定天然記念物となった。

真鍋小学校の桜

 
満開の真鍋小学校の桜。校庭に乗用車や自転車がみられるのはお花見客のものか。木造平屋建の校舎と3階建ての校舎(昭和39年3月鉄筋3階建9教室の校舎完成)がみられる。

真鍋台 総宜園

 
真鍋台にあった総宜園。六号国道(現国道125号線)の工事で削られるまでは、土浦町や霞ヶ浦も望めるお花見の名所だった。

真鍋台の総宜園(公園)

 
愛宕神社境内にあった真鍋・土浦・霞ヶ浦が一望できる桜の名所。昭和9年国道開設により中央部が削られ、公園がなくなった。満開の桜の後方に見えるのは、愛宕神社の松。

真鍋町役場

 
昭和15年当時の役場。場所は善応寺入口(駐車場部分)。昭和15年に土浦町と合併して土浦市となってからは真鍋支所として使用された。

真鍋通り

 
真鍋台より見た真鍋宿通り(陸前浜街道)。中央の田んぼを横町(現城北町)へ抜けている通りを「ながとうろ」と呼んでいた。

真鍋通り

 
坂下の四つ角から真鍋通りを望む。左側のガソリンスタンドには、手回しのガソリン給油機がおいてある。

真鍋通り

 
真鍋十字路から坂上方面を望む。角に木造の火の見櫓と消防機械置き場があった。遠くに総宜園が見える。

神国寺十三仏(田村町)

 
十三仏とは五如来・一明王・七菩薩のことで供養のために信仰されました。

神立の天狗様

 
旧暦8月15日に大きな天狗の人形を2体作っていた様子を再現していただきました。

神竜寺(文京町)

 
菅谷勝貞が土浦城内に建て、のちに土屋家の菩提寺となったお寺です。

神龍寺参道の桜

 
神龍寺参道の桜の様子。

水の退きはじめた大和町付近

 
正面の倉庫は旧イトーヨーカ堂付近。右手の土手は常磐線。

水郷霞ヶ浦

 
「水あれば洲あり、洲あれば葭あり、舟波に夢を揺られて立ち騒ぐ、行々子の声が湖面の静かさを破る。」

水郷風景 光る近代色

 
解説文 あやめとマコモに包まれ、ヨシキリの鳴く声に明け暮れする水郷にも、このモダンな水郷大橋がかかって、急に近代化の感がする。

水郷風景 趣き濃かに

 
解説文 水郷情緒の真価を知る十二橋の入口、ここから船は棹さして徐行し、両岸にはマコモ茂り家あれば必ず橋がある。

水郷風景 真菰の中に

 
解説文 水郷の白眉与田浦は加藤洲のなかにある。与田浦沼にあって、マコモ茂りアシ深く、あやめ咲き誇り、水郷の香り一段と濃い。

水郷風景 水の流れに

 
解説文 柳、ポプラ、マコモ、あしなど景物に恵まれて北利根の流れが注ぐところに、夕陽の美で名のあるこの牛堀がある。

水郷風景 水郷に栄ゆる・水都のほとり (2枚組)

 
絵葉書 解説文 「潮来は昔から三社詣の足溜めとして栄え、水郷を彩るあやめ踊りの本場として名高く、今なおその面影をとどめてにぎやかである。」 「水郷といえば直ちに潮来を連想するほど潮来は水郷の中心として有名であろう。写真はその潮来出島渡船場付近の風景。」

水郷風景 水色明麗

 
解説文 加藤洲の東に開ける波逆浦。大利根の流れ合いあうところ。その汪洋たる水の美。明麗なる風光は水郷の異色である。 ※汪洋(おうよう)水が豊かで水面が広々としている様子。

水郷風景 水邊に咲く

 
解説文 潮来出島のお月さま・・・・と唄われるここ潮来出島は優しいあやめの花に飾られて水郷の情緒もっとも心にしみる。

水郷風景 汀に歌ふ

 
解説文 霞ヶ浦の南岸近くにあってマコモとアシに包まれた浮島。周囲12km。写真はその浮島の北岸和田の入江の風光。

水郷風景 東洋一を誇る

 
解説文 東洋一といわれる利根川大閘門、利根川と霞ヶ浦の水位を調整するために設けられたもの、このところから洲のなかに入る。

水郷風景 匂ふあやめ

 
解説文 「水郷の情緒はこの牛堀付近からいよいよ本格的である。花美しい匂やかなあやめの眺めもこの辺りではひとしお趣が深い」

水郷風景 風を孕みて

 
解説文 オランダの風景を思わせる水郷十六島付近の眺色、十六島の名は十六の集落を意味している。

水郷風景 網に跳ねる

 
解説文 水郷の漁獲もまた楽しみの一つだ。コイとかエビ、ウナギとかシラウオ、ことにワカサギが多い。網に踊る魚をその場に食する風味、実に千金。

水郷風景 夕陽に映ゆる

 
解説文 赤く映える夕陽、マコモに渡る夕風、さざなみに散る金と銀、そこらに鳴いていた鳥も帰って行った。静かに暮れる水郷。

水郷風景 滄水に架る

 
解説文 鹿島神宮への参道にかかる参宮橋、大船津と延方とを結ぶ全長540間の素晴らしい長橋。昭和4年11月に完成。

水空間の変遷

 
近代、土浦のマチが発展するにつれて、マチのなかから姿を消していったものが水辺の空間でした。

水戸・旧城址

 
水戸城の二の丸御三階櫓。記念スタンプの日付が「9・8・22」とあることと、宛名面の書式から大正9年とわかる。

水戸旧城

 
水戸城二の丸跡にたつ御三階櫓(物見櫓)。絵葉書宛名面の形式から大正7~昭和8年の発行とわかる。

水戸旧城址

 
「MITO MEISHO」(水戸名所)とローマ字でタイトルが記された一葉。

水戸公園内八卦堂

 
弘道館の敷地周辺を水戸第二公園といい、老梅が数百本残されている。八卦堂はその内部に、徳川斉昭による弘道館記念碑を置いている。

水戸名所 大手橋

 
水戸城址において三の丸と二の丸を結んだ大手橋。宛名面の書式から大正7(1918)年以前の発行とわかる。

水車

 
踏車。羽根の先端を足で踏みながら回転させて水を送る。水路よりも高い位置にある水田へ水を汲み上げるための道具。

水上機(90式機練)

 
霞ヶ浦海軍航空隊水上班・国産水上機90式練習機。通称下駄履き機と呼ばれた。

水神宮の鳥居

 
現在のホテルカンコー先。水の中に鳥居があった。祭りにはみこしがこの鳥居をくぐって水中でもむ「お浜おち」という行事があった。遠景の松は航路の標識にもなっていた、水神様のご神木ともいわれた一本松。しめ縄が張られていた

水神森

 
佐野子町地内にあった水神森。昭和36年の水害後河川改修によりとりのぞかれた。ご神体は、佐野子町鹿島神社境内に安置されている。

水天宮(川口二丁目)

 
江戸時代後期に久留米水天宮の分霊を土浦藩邸に祀ったのがはじまりとされます。

水没した栄町(現桜町二丁目)通り

 
舟以外の交通は不能となった、水没した栄町(現桜町二丁目)の状況。

水没した土浦町

 
土浦町の空撮(下高津上空から手前に桜川、後方に大町を望む)。

水面に目をやる人々

 
堤防を歩く人々は桜川の水面の方に注目しているように見える。何か催しでもあったのであろうか。

炊出し

 
土浦市役所(現関東つくば銀行)での炊出し光景。

菅谷の地蔵(菅谷町)

 
江戸時代中期の作と考えられる合掌をしたお地蔵さまです。

菅谷分校玄関

 
上大津東小学校の分校として大正7年に建設、昭和61年に菅谷小学校の開校に伴い取壊。(現集落センター)

正門

 
海軍航空隊本部(現在の茨城大学農学部にあたる)の正門。絵葉書の画面が磨耗しているためタイトル文字が一部不明。「霞ヶ浦海軍航空隊本部正門」と書かれていたと思われる。

清滝寺

 
清滝寺は、大同2(807)年徳一によって創建されたと伝わる古刹。はじめ竜ヶ峰にあり、のちに「古観音」の地に移り、次いで現在地に移ったといわれる。

西門橋土俵杭止めの跡

 
現在の土浦第一中学校の裏にあたる、西門橋土俵杭止め跡。後方は県立土浦高等女学校( 現土浦第二高等学校)。

西櫓

 
元和6(1626)~7年に、土浦城主西尾氏が建てたと伝わる東西櫓のひとつ。昭和24(1949)年8月のキティー台風で破損し、危険となり解体された。

西櫓と桜

 
西櫓は元和6(1626)~7年に、土浦城主西尾氏が建てたと伝わる東西櫓のひとつ。昭和24(1949)年8月のキティー台風で破損し、危険となり解体された。

青い目の人形歓迎会

 
親善大使としてアメリカから贈られた人形(中央ケース)の歓迎会。土浦尋常高等小学校に寄贈されたもの。茨城県には243体が配布されたと記録は伝えるが、2008年現在確認できるのは10体。

青い目の人形歓迎会(大人)

 
青い目の人形歓迎会の様子。町長をはじめ町の有志も臨席した。敵国人形として戦争中に処分されるものもあったが、土浦では土浦幼稚園の教職員の手により保管され現在に残る。

赤池

 
手前の池は、現在の県南自動車学校の敷地。右上に旧6号国道が見える。

赤池付近の旧水戸街道

 
板谷の一里塚付近。この松並木と一里塚は市指定文化財となっている。

摂政宮(昭和天皇)

 
摂政宮(昭和天皇)が海軍礼装姿で飛行訓練を見学する様子。

摂政宮殿下奉迎の列

 
旧中家村役場前の、霞ヶ浦海軍航空隊へ向かう摂政宮(昭和天皇)歓迎の列。備前川橋上から、町並を望む。後ろの森は愛宕神社境内。海軍道路が未完成の当時、阿見へ行くには高津を通って行った。

雪洞「土浦桜まつり」

 
桜川堤防に「土浦桜まつり」のぼんぼりがたちならぶ。遠くにお花見客がみられる。

川と洪水の想い出

 
マチのなかを流れていた川の想い出と、昭和13・16年の大水(洪水)の記憶を語っていただきました。

川口の風景

 
護岸も、バスの便もなかった時期の川口。霞ヶ浦沿岸の町村を結ぶ定期船と高瀬舟がみられる。

川口運動公園市営相撲場

 
川口運動公園の一角に相撲場が完成。大相撲土浦巡業の際、横綱羽黒山が土俵入りをして完成を祝す。昭和38年、利用度が少ないことから取り壊され、現在はサブグラウンドになっている。

川口運動公園市営相撲場開き(記念写真)

 
川口運動公園の一角に相撲場が完成。大相撲土浦巡業の際、横綱羽黒山が土俵入りをして完成を祝す。昭和38年、利用度が少ないことから取り壊され、現在はサブグラウンドになっている。

川口河岸

 
TCビル付近の様子。正面の建物の所が土浦セントラルにあたる。

川口川沿いの土浦の中心街

 
川口川沿いの空撮(現常陽銀行駅前支店を中心に)。 右端に八千代橋、左手に朝日橋。柳や桜の並木、霞ヶ浦沿岸町村との連絡船が見られる。

川口川河口の雪景色

 
川口川河口。小型の釣り船や貨物船がつなぎとめられている。前方の橋は港橋。

川口川支流沿いの漁家

 
川口川支流の風景。東崎方面へ流れていた川沿いには霞ヶ浦で漁をする人たちが住んでいた。

川口川周辺

 
写真右の三輪銀行の倉庫は、現常陽銀行駅前支店の裏側にあたる。水面には畳などの流出物が見える。絵葉書「(土浦町大洪水)土浦町川口 昭和十三年六月三十日」

川口川風景

 
正面は八千代橋。左側に霞ヶ浦農業倉庫が並ぶ。現在の大和町2番・モール505付近にあたる。

川口川閘門と排水機場

 
川口川閘門と排水機場の外観。ともに洪水の時は威力を発揮した。

川口川閘門の排水状況

 
川口閘門を締め切っての市街地内のポンプ排水。常設のポンプだけでは追いつかず、県からもポンプを借用した。

川口川閘門の門扉

 
閘門の様子。撤去されたモーターは近くの広場に展示。

川口川閘門周辺

 
川口川閘門から見た上流(現モール505)。前方左手にかかった橋は八千代橋。

川口川閘門竣工式

 
明治39年6月24日竣工。田町川閘門とあわせて工費は36,904円48銭1厘。茨城県技師関尾忠直工学博士の設計。霞ヶ浦からの逆水による洪水を防ぐために造られた。「土浦閘門工事竣工式 明治39年6月24日挙行 請負人水戸荒巻熊次郎」

川口川閘門付近

 
川口川閘門付近の様子。右側に常磐線が走っている。この上に科学万博開催にあわせて高架道ができた。

川口町 昭和十三年六月三十日 土浦町大水害の実況 

 
昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。現在の川口町付近。

川口町の市営駐車場

 
川口川を埋め立てて、昭和42年6月20日開業。昭和60年つくば万博の前に高架道路が建設されたため、モール505になった。

川口町常磐線跨線橋

 
昭和58年9月川口ガード下道路開通に伴い閉鎖,解体される直前の跨線橋。

川口町通り

 
朝日橋(旧小網屋前)から見た川口町通り。高い塔は、土浦警察署の望楼。

川口閘門に通じる道

 
大和町川口川霞ヶ浦農業倉庫(旧イトーヨーカー堂)付近の様子。別名「S字の坂道」といわれていた。

川口閘門付近

 
浸水した川口町。右前方は閘門。現モール505の野外ステージ付近の状況。

戦後学校給食始まる

 
コッペパン・おかず・ミルクなどの、いわゆる完全給食風景。給食は、戦後数年を経て、米軍からの脱脂粉乳によるミルク給食から始められた。

戦後間もない女子教員

 
もんぺ姿に白足袋などの女子教員の記念写真。戦後間もない頃は、男子教員が少なく、小学校は女子教員が多かった。

戦勝祈願

 
太平洋戦争中、土浦小学校児童が八坂神社で戦勝祈願をしたところ。当時5年生以上全員で土浦少年団を結成。持っている棒は団杖。

戦勝祈願

 
真鍋八坂神社での戦勝祈願。約150人が参集して、戦勝を祈願した。

戦場に赴く兵士達を送る

 
出征兵士を乗せた輸送列車を、市民は日の丸の小旗を振りながら見送った。

戦場に赴く兵士達を送る

 
出征兵士を乗せた輸送列車を、市民が日の丸の小旗を振りながら見送っているところ。

銭亀橋 昭和39年

 
銭亀橋大町側より下高津側を望む。欄干そばには犬、対岸の橋のたもとには釣り人らしき数人の姿が見られる。

銭亀橋と筑波山

 
下高津から銭亀橋を望む。銭亀橋は慶長18(1613)年7月から9月に水戸街道の整備にともない架橋。土浦八景の一つ「銭亀の夕照」として詩文にも残る。

銭亀橋より下高津町を望む

 
下高津宿通り。手前の橋は備前川のもの。右の木陰に旧中家村の役場が見える。正面の森は愛宕神社と常福寺の境内。

銭亀橋架設工事

 
銭亀橋の、木造での最後の架け替え工事。中央2階建ては中家村役場、その後方の台地は紅葉ケ丘公園。銭亀橋、簀の子(すのこ)橋、桜橋を土浦三橋といい、江戸時代重要な役割を果たしてきた。

銭亀橋付近

 
銭亀橋付近の洪水の様子。左側の屋根越しに旧中家村役場の屋根と、消防の「火の見櫓」が見える。

前川と亀城通り

 
裁判所裏の川(現公園ビル)から、土浦町役場(現関東つくば銀行)付近。お堀の先には搦手橋。

前川町地先の四ツ手網漁

 
前川(現公園マーケット)の風景。川は現在暗渠となり、その上が公園マーケットになっている。左側の松は裁判所北側の堤のもの。

善応寺(真鍋町三丁目)

 
佐久良東雄の扁額のほか、土浦城にも水がひかれた「照井の井戸」が有名です。

善應寺先代佐久良東雄碑

 
幕末の勤皇の志士で、歌人・国学者として知られた佐久良東雄が住職を務めました。

善應寺本堂内陣

 
善応寺は真鍋町にあります。佐久良東雄が住職をつとめたことでも知られています。

早慶新人戦

 
土浦市制10周年を記念して、市営野球場が完成.。この記念行事として、早慶新人戦が行われ、華々しくオープンした。中央からやや左に立っているのは、天谷丑之助市長。

足踏み水車

 
この当時は機械揚水の施設がなかったため、水路より高い水田には水車かバケツで水を入れた。

足踏脱穀機

 
足踏みの板を踏むと胴が回転する。両手で持った稲束を回転する胴にあてると、稲穂が歯にあたって籾を落としていく。

太鼓と小太鼓の結び方

 
太鼓と小太鼓を竹に結びつける方法について記録をとりました。

体操 三年 土浦高等女学校

 

体操 二年 土浦高等女学校

 

 堆朱硯箱

 
表面に漆を何層にも塗り重ね、その漆の層を刀で掘ってレリーフ状に繊細な文様が表わされた、堆朱の硯箱である。土浦藩士安藤家伝来の品。安藤家は、代々権兵衛を襲名し、二代権兵衛以降、基本的に土浦詰め藩士として幕末まで土屋家に仕えた。

代かき

 
春先、荒起しした水田を田植え直前に、蓄力で馬鍬(まんが)という農機具を使い代かきをしている。

大釜の渡し

 
栄町(現桜町二丁目)の洪水の状況。舟の代わりに大釜でつくったいかだを子供があやつっている。

大岩田の奉納相撲

 
大岩田愛宕神社では8月24日の愛宕さまの縁日に奉納相撲が行われます。

大岩田坂本家のウジガミ祭り

 
収穫した藁をつかい屋敷神であるウジガミ様のほこらを作る様子をご紹介します。

大岩田坂本家の歳棚づくり

 
正月に迎える歳神さまのために棚を作る様子を記録した映像です。

大岩田坂本家の正月行事

 
歳棚作り、若水汲み、一鍬、ならせ餅などの正月行事をご紹介します。

大岩田小学校

 
昭和40年代まで使用していた高台にあった校舎。

大岩田小学校

 
校舎が高台にあったころの様子。上下の校庭を結ぶ坂道があった。昭和43年校舎は取り払われ、土砂を削って平地化して現在の校舎が新築。

大儀金物店付近

 
中央に大儀金物店、左に小野時計店。大儀金物店の大きなたらいが印象的。

大手門跡 昭和39年 

 
つきあたりが土浦幼稚園。江戸時代大手門があった所。昭和54(1979)年には土浦幼稚園建て替えに伴い大手門のものと考えられる丸太材を使用した地業と思われる遺構が発見された。

大正13年頃の桜橋付近

 
旧土浦警察署の火の見から桜橋方面を望んだもの。手前左側に豊島百貨店、その先に木造三階建の丸萬・丸勢旅館、桜橋右に松庄旅館、後方に二階建ての土浦町役場と教会。

大正時代の女性の外出着

 
若い女性のおしゃれ着姿。当時の女性の外出着には銘仙((めいせん)がよくつかわれた。長い羽織が流行していたようである。

大正時代の土浦税務署

 
内西町(現中央一丁目)の土浦小学校東校があった位置に移転した土浦税務署。現在は関東つくば銀行駐車場。明治29年開設当初は同町内の別の位置にあった。

大正時代の土浦町役場

 
前川町戸長役場(現中央2丁目)跡に建てられた土浦町役場。のちに両袖に増築された。

大正時代の土浦幼稚園児

 
時計の針は13時50分。お帰り前に瞑想の時間があったようすである。背景に掛かっているのは掛図(かけず)。教育玩具であるフレーベルの恩物の使い方を図示している。

大正初期の高瀬舟

 
現在のホテルカンコー前あたりの、舟だまりの様子。

大正初期の桜橋付近

 
中城町(現中央一丁目)から本町(現中央二丁目)方面。中央の人が歩いている所が桜橋で、石の欄干がわずかに見える。

大正末期の外輪船

 
川口川の外輪船。前方の白い建物は、霞ヶ浦海軍航空隊汽艇乗り場。左側の建物は常磐線寄りの日高汽船部。「(土浦名勝)霞ヶ浦川口の景」

大正末期の土浦駅前通り

 
現在の125号線の交差点付近から駅方面を見る。阿見までの海軍道路ができ、駅前通りの道路幅が広げられた。

大聖寺(永国町)

 
小田氏治が寄進したとされる簾天神名号は貴重な文化財です。

大切り

 
2日目の本祇園や3日目の裏祇園の最後などで演奏されます。

大洗神社

 
大洗市街地を見下ろす高台に位置する大洗磯崎神社本殿と拝殿。拝殿は、1730(享保15)年に水戸藩主3代綱条が再建した。この地方の海の守護神として信仰を集めている。

大町通り

 
銭亀橋から田宿町(現大手町)方面を写す。街角の共同井戸、当時の運搬車である大八車などが見える。

大町通り 昭和39年 

 
旧水戸街道、大町の通り。柴沼商店、飯塚酒店、井上酒店と軒をつらねている。前方には桜川に架かる銭亀橋がある。

大日本蚕糸会

 
大日本蚕糸会が閑院宮総裁を迎え土浦尋常高等小学校において開催。スタンプ「大日本蚕糸会記念 蚕糸品評会 大正六年十月 茨城支会主催」

大里よしさんとく子さん親子の絣再現

 
農家に伝わった絣の技術を分かりやすくご説明いたします。

大和町通り 昭和十三年六月三十日 茨城縣土浦町大水害ノ賓況

 
膝くらいの水位、左側の西洋建築の屋根は三ツ輪銀行

大和町通り 昭和十三年六月三十日 土浦町大水害の実況 

 
昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。現在の大和町あたり。左側にみえる西洋建築の屋根は三ツ輪銀行(のちに常陽銀行となる)。船が行き交い、水につかりながら移動する人々の姿がみえる。

大和町通りは舟でいっぱい

 
現常陽銀行駅前支店付近の洪水の様子。右端は増田タンス店。はしごで二階から出入りしている。

第9回流灯会

 
大町青年会による『おしどり流し』という名称の灯籠流し。お盆の16日仏供養のために、灯籠に灯りをともし流した。桜川の銭亀橋のたもとには舞台がかかり、たくさんの人が集った。

鷹匠町(現中央二丁目)の通り

 
鷹匠町の浸水状況。減水してきたころと思われる。

瀧泉寺(中央二丁目)

 
瀧泉寺の十一面観音菩薩坐像・大日如来立像・不動明王立像をご紹介いたします。

濁流を横切る人

 
栄町(現桜町二丁目)の通りを避難する女性。

筑波山全景

 
筑波山を神郡方面より望む。馬や人力車もみえる。

筑波山名勝 筑波神社 一の鳥居(筑波駅前)

 
筑波鉄道(現つくばりんりんロード)の筑波駅から筑波山神社へむかう途中にある鳥居。雄大にそびえる筑波山がみえる。

筑波神社参拝遠乗り会出発風景

 
いはらき新聞土浦出張所主催の「筑波神社参拝遠乗り会」の亀城公園出発風景。正面の建物は土浦小学校校舎。手前の門柱は本丸跡にあった新治郡役所の正門。

筑波鉄道

 
筑波鉄道真鍋駅付近。中川ヒューム管工業株式会社の製品が並んで写る。

筑波鉄道汽車

 
虫掛付近の田園を走る筑波鉄道。

筑波登山手引山案内

 
筑波山を中心にした鳥瞰図。画面下部に筑波鉄道の線路が延び、そこから筑波山への登山道が伸びる。

筑波名勝 筑波町全景

 
筑波町全景とあるが筑波山中腹の様子を被写体としたもの。大正時代後半~昭和時代初期の発行。

中家村役場

 
旧中家村大字上高津字小橋(備前川右岸、旧陸前浜街道に面す)にあった中家村役場。明治25年に建築費335円で新築された。

中家村役場

 
昭和3年12月に新築された中家村役場。建築費は1万2千円であった。

中貫の明神祭り

 
当屋で大蛇のしめ縄をつくり、神社の鳥居に飾る様子を記録した映像です。

中貫宿本陣(本橋家)

 
母屋と正面に張り出した唐破風造りの三間半式台。母屋の背後に付属する釜屋と馬屋などがあった。昭和46年7月13日土浦市指定文化財(建造物)に指定され、本陣建築が残されている。

中貫宿本陣(中貫町)

 
水戸街道沿いにあり大名の宿泊に利用されました。天狗党の乱の後に再建されました。

中貫消防組員

 
現在の富島商店前に木造の火の見櫓があった。

中高津の風景

 
下高津坂上(旧水戸街道)から中高津宿通りを見る。写真裏に「耕地整理組合」と記される。大正11年頃、久松五右衛門により大規模な市街地の造成が進められており、馬車の木材はその為の材料か。

中高津地蔵尊(中高津)

 
この地蔵堂には平安時代の仏像が残されています。

中城町 大徳

 
大徳(大国屋徳兵衛)は江戸時代中期開業の老舗。現在は建物を改築し「まちかど蔵大徳」として公開している。

中城町通り 大徳商店

 
大徳(大国屋徳兵衛)は江戸時代中期開業の老舗。当時 中城町(現中央一丁目)には土浦町の代表的な店がならんでいた。

中城町通り 飯塚商店

 
当時の新しい商売として時計屋と自転車屋があった。その代表的な店の造り。自転車も輸入品。

中城通り

 
桜橋から、歳末大売出しの装飾がされた中城通りを見る。

中村小学校

 
昭和50年頃の校舎。昭和22年に東小学校の分校として、旧海軍航空廠工員宿舎を借用して開校。翌年独立して中村小学校となり昭和31年現在地へ移転。

虫掛橋

 
虫掛橋は別名凱旋橋ともいった。右側の煙突は柴沼醤油工場。遠くに虫掛神社の松がみえる。

虫掛堤防の復旧

 
虫掛堤防の復旧活動のようす。工兵隊の応援を得て、雨の中での作業。

潮来

 
「町屋根が夢のように水に浮かんでいる、桟橋の影もくっきりと、枯れ葦におく玉露が月に光っている。」

町内対抗野球大会光景

 
現在の土浦警察署あたりに通称中城グラウンドと呼ばれた運動場があった。町内対抗の野球大会などが行われた。国道六号(125号)は昭和7年の着工。

堤防下の臨水遊歩路

 
堤防下の臨水遊歩路を散策する人々や、船が接岸する様子がみられる。

天川・大堀団地の変遷

 
天川団地造成直後の写真。大堀団地は造成前。天川団地周辺は土浦市で大きく変貌した地域の一つである。

天川・大堀団地の変遷

 
天川団地周辺は土浦市で大きく変貌した地域の一つ。土浦第四中学校と東京電機製造株式会社のほか、民家はまばらだった。

伝統稲作と農具①

 
春から夏にかけての農作業に使用される農具をご紹介します。

伝統稲作と農具②

 
秋から冬にかけての作業に使用される農具をご紹介します。

伝統稲作と農耕儀礼(秋~冬)

 
十八夜、田の神返し、歳棚など秋から冬にかけての農耕儀礼をご紹介します。

伝統稲作と農耕儀礼(春~夏)

 
一鍬や苗おびあき、虫送りなどの農耕儀礼をご紹介します。

田園風景

 
下高津台地(紅葉ヶ丘公園)から筑波方面を望む。手前、木の間がくれに見えるのが旧6号国道。中央に流れる桜川をはさんで、手前は下高津三丁目。その先は生田町・田中町。現在ではビルや住宅がたちならんでいる。

田下駄

 
湿田の深い田んぼで使用された履物。稲刈りのときには、これを履いて刈り取った稲の株を歩きながら作業をした。 収集者:土浦市郷土資料館 収集地:土浦市中高津

田宮ばやし  茨城県指定無形民俗文化財 (本編)

 
土浦市田宮地区に伝わる「田宮ばやし」は疱瘡ばやしなど7つの曲目で構成され、主に疫病退散を願って演奏されるものです。この映像は、田宮地区の祇園祭で3日間にわたり演奏される「田宮ばやし」を中心に、田宮地区の保存伝承活動の取り組みをご紹介するものです。

田宮ばやし 概要版のダイジェスト映像

 
土浦市田宮地区に伝わる田宮囃子(茨城県指定無形民俗文化財)は7つの曲目で構成されています。

田宮ばやし 伝承版 「さんぎり」

 
祭りが始まるとき、最初に演奏される曲です。

田宮ばやし 伝承版「かっころばやし」

 
かっころばやしは神を喜ばせるという意味のお囃子だといわれています。

田宮ばやし 伝承版「大杉ばやし」

 
稲敷市阿波の大杉神社を発祥とするお囃子です。大杉神社は「アンバさま」ともよばれ疫病や疱瘡よけの神様として信仰されています。

田舟

 
湿田で使用する舟。稲刈りのときに、刈りとった稲を田舟の上で束ねて、穂が濡れたり汚れたりしないようにして運搬をした。土浦市矢作地区の農家が使用したもので、桜川沿いの低地(飯田地区側)の深田で使用した。耕地整理が行われてからは使用されなくなった。 収集地:土浦市矢作

田舟

 
湿田で使用する舟。稲刈りのときに、刈りとった稲を田舟の上で束ねて、穂が濡れたり汚れたりしないようにして運搬をした。 収集地:土浦市菅谷町

田舟

 
湿田で使用する舟。稲刈りのときに、刈りとった稲を田舟の上で束ねて、穂が濡れたり汚れたりしないようにして運搬をした。 収集者:土浦市郷土資料館 収集地:不明

田舟で水見舞い

 
中城通り(現中央一丁目)の洪水の状況。田舟も大活躍。

田植えのひとこま

 
絣の着物に股引姿、姉さん被りの女性たち。田んぼの畦で一休み。

田植の風景

 
手前の女性は苗代から苗を抜いているところ。中間の女性は、田植え。その先の女性は馬による代かき。

田中八幡神社(田中二丁目)

 
平将門の伯父で平国香をまつる五社明神が境内に合祀されています。

徒歩五十米(決勝) 各学年 土浦高等女学校

 

徒歩百米決勝 各学年 土浦高等女学校

 

都和小学校

 
昭和45年まで使用されていた校舎。現在手前右側の水田は埋め立てられて、都和公民館が建てられている。

都和村役場

 
明治25年戸長役場跡地(大字常名字新郭)に都和村役場として竣工。その後、土浦市役所都和支所として改築し、使用。

土づくりから稲の種まき

 
土づくりから種まきまで、苗代での一連の作業をご覧いただきます。

土浦ー鹿島急行船発着時間表

 
麻生・牛堀・潮来経由の鹿島行きで、1日4往復していた時刻表と運賃表。

土浦にヘリコプター

 
万国郵便75周年記念の行事として米軍ヘリコプターによる郵送サービスがあった。初めてヘリコプターが飛来したので大勢の人が見物にかけつけた市営野球場。

土浦の花火

 
花火競技大会の歴史を振り返りながら、花火の仕組み・制作方法について解説します。また、茨城県下に伝わる農村花火もご紹介します。

土浦の村―乙戸町の年中行事

 
神社の祭り、初詣、初午、百万遍、青箸行事、七夕馬、亥の子、犬供養など1年を追います。

土浦の盆行事

 
地域によって先祖を迎え送る方法は少しずつ違います。市内各地のお盆行事をご紹介します。

土浦駅給水塔付近

 
土浦駅構内の遠望。手前は現桜町一丁目付近で、遠くには霞ヶ浦が広がる。

土浦駅舎から見た駅前通り

 
駅前の通りの洪水の様子。駅舎は水没から免れたので、ここを起点に船の出入りがはげしかった。絵葉書「土浦駅前通リ 昭和十三年六月三十日 茨城縣土浦町大水害ノ実況」

土浦駅舎から見た駅前通り

 
駅前の通りの洪水の様子。駅舎は水没から免れたので、ここを起点に船の出入りがはげしかった

土浦駅前 昭和十三年六月三十日 茨城縣土浦町大水害ノ實況

 
駅前にはたくさんの人が避難している。人々は船で移動

土浦駅前 昭和十三年六月三十日 土浦町大水害の実況 

 
昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。土浦駅(背後)は水没を免れ、ここから多くの船がでた。

土浦駅前での救護船の活躍

 
周辺漁村からの応援。駅前から船賃5銭で、市内交通に活躍した。

土浦駅前での炊出し

 
海軍航空隊救護班の応援による炊出し。絵葉書「救護班ノ活動 昭和十三年六月三十日 茨城縣土浦町大水害ノ実況」

土浦駅前に建てられた奉迎アーチ

 
土浦駅前に建てられた摂政宮(昭和天皇)奉迎アーチ。

土浦駅前広場

 
昭和20年、空襲激化に伴い運輸施設を守るため、駅から50m以内の建物は強制疎開により取り払われた。昭和24年中央に噴水池を、周辺には樹木を植えるなどし公園風の駐車広場とした。その後駅ビル完成(昭和58年)に伴い一新された。

土浦駅前通り 昭和十三年六月三十日 土浦町大水害の実況 

 
昭和13(1938)年の洪水の様子を伝える絵葉書。現在の大和町付近。駅舎は水没を免れた。

土浦駅前風景

 
昭和22年頃の駅前通り。左側に霞ヶ浦通運株式会社・駅貨物取扱所(りそな銀行付近)が写る。中央に交通整理官の姿や自動三輪車が走っている通勤風景。

土浦演藝館

 
土浦に次々にできた芝居小屋の一つ。説田良三郎によって作られた。

土浦海軍航空隊 ラ式蹴球

 
課業終了後や土曜日の午後などには、武技や球技・水泳などで体力気力の錬成を行った。

土浦海軍航空隊 剣道

 
課業終了後、夕食までは柔道、剣道などの武技、球技、水泳などでさらに体力気力の錬成を行った。土曜日の午後も大掃除の後、同じく武技や球技、水泳等を行った。

土浦海軍航空隊 柔道

 
課業終了後、夕食までは柔道、剣道などの武技、球技、水泳などでさらに体力気力の錬成を行った。土曜日の午後も大掃除の後、同じく武技や球技、水泳等を行った。

土浦海軍航空隊 銃剣術

 
木銃を用いた訓練。

土浦海軍航空隊 体操

 
朝礼後の海軍体操の光景か?

土浦海軍航空隊 短艇訓練(出発)

 
短艇はカッターとも呼ばれる。14人乗りのボートであり、左右に漕ぎ手が6名ずつオールを持って漕ぐ。艇指揮、艇長が後部に位置する。

土浦海軍航空隊 跳込

 
課業終了後や土曜日の午後などには、武技や球技・水泳などで体力気力の錬成を行った。

土浦海軍航空隊 通信術

 
軍事学として通信術を学んだ。場面はモールス符号の送受信訓練を行っているところか。

土浦海軍航空隊 帆走訓練

 
土浦海軍航空隊の帆走訓練の様子。

土浦海軍航空隊 飛沫ヲ揚ゲテ(適性飛行)

 
予科練生を操縦組と偵察組に進路を分けるための飛行適正検査(飛適)の時には、教官が同乗し、指示により操縦を実施して適性を検査された。

土浦海軍航空隊 平行棒

 
海軍航空隊の訓練の様子。

土浦海軍航空隊 籠球

 
課業終了後や土曜日の午後などには、武技や球技・水泳などで体力気力の錬成を行った。

土浦館

 
明治28・29年頃建築の木造三階建ての船宿。第二次大戦中は東京の学童疎開の受け入れを行った。昭和48年に解体。

土浦館客室の一部

 
明治時代なかごろに、川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。土浦館では第二次世界大戦中、戦火を逃れる東京の児童の受け入れも行った(学童疎開)。

土浦館玄関

 
土浦館は、明治時代なかごろに川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。

土浦館全景

 
明治時代なかごろに、川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。川口川は河岸として栄え、水運が盛んだった当事の面影がしのばれる。土浦館の絵葉書シリーズには、建物の内部の他、土浦桜川堤の桜や、霞ケ浦海軍航空隊の水上班を写した写真もある。

土浦館庭園の一部

 
明治時代なかごろに、川口川沿いに建築された木造3階建ての旅館ある。庭園の一部を被写体としており、渡り廊下がみえる。

土浦館撞球部

 
昭和8年(1933)頃の川口川沿いにあった旅館土浦館の撞球部。木造3階建ての本館とは悦に、洋食部と撞球部があった。電灯を灯した室内には、和装の男性や女性が顔をそろえ、洋装の男性2人がキュー(突き棒)を構え、ビリヤードに興じている。水平に横切るストーブの煙突やテーブルに置かれた鳥かごもみえる。

土浦館洋食部

 
昭和8年(1933)頃の川口川沿いにあった旅館土浦館の撞球部。木造3階建ての本館とは悦に、洋食部と撞球部があった。

土浦丸勢旅館 電話二百五十九番

 
丸勢旅館は三階建てで、桜橋近く(現在の保立食堂隣り)にあった。大正から昭和の初めにかけて、繭糸市場の全盛時には多くの人でにぎわった。

土浦亀城公園宿り木附近

 
手前のひょうたん池などが整備されたのが昭和9年であることから、昭和10年代の撮影と思われる。忠魂碑、櫓門、宿り木がみえる。

土浦亀城通

 
昭和11年に開通した亀城通り。物見櫓は土浦警察署前にあったもの。奥の建物は豊島百貨店。

土浦亀城通り

 
昭和11年4月に開通した亀城通り。手前左に土浦町役場(現関東つくば銀行)。「昭和十一年四月開通 土浦亀城通り(其二)」

土浦祇園市場の夜景

 
祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年(1935)に町営土浦公営市場の名の下、6月1日に開店した。当事としては珍しい自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。

土浦祇園市場の夜景

 
祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年に町営土浦公営市場の名の下に6月1日に一斉に開店した。当事としては珍しく自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった

土浦祇園市場仲見世

 
人々でにぎわう祇園市場の仲見世(中央2丁目)の様子。撮影年代は昭和15年頃か?

土浦橋から千束町・大町方面を望む

 
旧6号国道(現国道324号線)沿いの洪水の状況。土地が低く、もっとも水没した地域の一つ。

土浦局の電話交換風景

 
交換手が電話申し込みを聞き、手動で交換台にジャックを差し込んでいた当時の風景。場所は当時内西町(現中央一丁目)にあった郵便局2階 。

土浦区裁判所

 
大正時代の土浦区裁判所。この建物は昭和46年頃取壊され、現在の庁舎になった。

土浦区裁判所

 
明治38年10月,茨城県土浦区裁判所新築工事上棟式の様子。

土浦警察署

 
昭和12年3月現在地(立田町)に新築された土浦警察署。中央の半円形に見えるのが留置場。昭和51年10月に現在の建物に改築された。

土浦警察署

 
昭和11年まで、本町(現中央一丁目)にあった警察署。現在の日本生命土浦ビルの所。

土浦警察署 昭和42年6月 

 
昭和12年に現在地に新築された土浦警察署。「追い越しは よく確めて 合図して」の標語が大きく掲げられている。

土浦御祭礼之図

 
露払いの獅子、囃子引屋台(大太鼓・締太鼓(2)、笛、鼓)、天王の神輿の行列(のぼり、矛、太鼓)

土浦御祭礼之図

 
文化9(1812)年の祭礼の様子を描いたもの。在方の虫掛村の神輿の露払いにはじまる祭礼行列の先頭から最後尾の大町までを描く。祭礼の次第のほか町組の名や参加した人数、出し物の材料などを記しているのが特徴。土浦市指定文化財。 閉じた状態「土浦祭礼之図 国分」

土浦御祭礼之図

 
虫掛村(祭礼行列の露払いの獅子) 文化9年(1812)は惣町大祭であったことから、城下町の全ての町組が参加をした。そのため、ふだんの祇園祭では当番となった町組がつとめる獅子舞を、在方の虫掛村が務めている。

土浦御祭礼之図

 
中城町(桃太郎の母は立場にて長唄所作、囃子の底抜け屋台?)、田宿町(花の万度、子供相撲万度、土俵入りの所作)

土浦御祭礼之図

 
横町(大名行列の仮装 「家老」)

土浦御祭礼之図

 
東崎町(棒ささら)、本町(魚の子供万度、花・三番叟?の万度、警固) 本町の人数は170余人(子供含む)、警固役30人。

土浦御祭礼之図

 
横町(大名行列の仮装)

土浦御祭礼之図

 
横町(大名行列の仮装 「米積大蔵太輔」)

土浦御祭礼之図

 
横町(大名行列の仮装 「米積大蔵太輔」「家老」)

土浦御祭礼之図

 
横町(大名行列の仮装 「国富 豊」)

土浦御祭礼之図

 
川口町(道成寺の万度〔大釣鐘、般若、T字型の棒〕、囃子屋台、帆柱の五色の吹流し)

土浦御祭礼之図

 
横町(大名行列駕籠)、川口町(筆子の子供万度、松・折紙・三番叟の万度、道成寺の万度) 川口町の人数は船の者まで入れて280余人。若者や後見世話人まで含めると都合400余人の大行列。

土浦御祭礼之図

 
佐原の西村万七が描いたもの。文化9年は惣町大祭であったため、ふだんの祇園祭(6月12日・13日)よりも長い期間にわたった。

土浦御祭礼之図

 
川口町(帆柱の五色吹流し引物大万度)、中城町(花・うちわの万度、桃太郎の万度)

土浦御祭礼之図

 
中城町(桃太郎の万度、花車、桃太郎の母)

土浦御祭礼之図

 
田宿町(子供角力万度、米俵を積んだ牛車の万度、囃子底抜屋台)

土浦御祭礼之図

 
田宿町(囃子は底抜屋台)、裏町(花の万度)、西門・田中(折鶴の万度)

土浦御祭礼之図

 
大町(松の万度、蜃気楼の万度、囃子と踊りの引屋台)

土浦御祭礼之図

 
西門・田中(大亀を戴いた囃子の引屋台)、大町(花・鯛の子供万度、松・日の若者の万度)

土浦御祭礼之図

 
神輿渡御、馬

土浦御祭礼之図

 
神輿渡御(矛、太鼓、榊、天狗、神職、傘、神輿)、神輿は殿里の人たちが担ぐとされる

土浦御祭礼之図

 
大町(囃子と踊りの引屋台)

土浦御祭礼之図

 
横町(大名行列の仮装)

土浦御祭礼之図

 
中町(朝鮮通信使の仮装行列)

土浦御祭礼之図

 
中町(朝鮮通信使の仮装行列)、田町(花の万度・「去暮難渋ニ付万度斗リニ御座候」)、横町(大名行列) 田町では前年の暮れに火事があったため、行列には万度だけを参加させている。出し物であった「弥勒の出し」は町内に飾り付け置いた。

土浦御祭礼之図

 
毛槍?、東崎町(花の万度・棒ささら) 底抜け屋台の中の三匹の獅子には、これを操っているであろう人々の顔がみえる。茨城県中央部にみられる「棒ささら」を描いたものであろう。

土浦御祭礼之図

 
本町(日烏月兎の引物大万度)、中町(酒樽の万度、朝鮮通信使の仮装行列)

土浦御祭礼之図

 
中町(朝鮮通信使の仮装行列)

土浦御祭礼之図

 
中町(朝鮮通信使の仮装行列)

土浦御祭礼之図

 
本町(警固、日烏月兎の引物大万度をつけた曳き屋台)

土浦公共職業補導所

 
失業対策事業の一環として昭和25年7月1日常総学院中学校跡に開設。修業年限3ヶ月で、無線電技科と手工芸科(造花と釣具作り)があった。人物は初代所長の伊藤平治氏(職業安定所所長兼務)。建物は昭和33年まで利用。

土浦拘置所

 
昭和51年国分町移転前の土浦拘置所。現在跡地は亀城プラザとなっている。

土浦拘置所  昭和42年6月 

 
亀城通りのようす。左手奥は合同庁舎。右手のバス停の奥は拘置所で、現在は亀城プラザ。手前の亀城公園のお堀は石垣状に整備する前のもの。

土浦港

 
土浦港の荷揚げ場。のちに荷揚げ場は対岸に移された。前方の突出したところは港町三丁目付近。

土浦港ドック

 
土浦港ドック(土浦駅の東側)の風景。昭和57年頃埋め立てられた。

土浦高女秋季大運動会  メーデーメーポール  本二 

 
ヨーロッパのメイポールダンス。

土浦高女秋季大運動会  方板体操 本四

 
戦前。土浦高等女学校(現:茨城県立土浦第二高等学校)の運動会の様子。

土浦高女秋季大運動会 アレイ体操 本三

 
戦前。土浦高等女学校(現茨城県立土浦第二高等学校)の運動会の様子。

土浦高女秋季大運動会 チルドレンポルカ 本四

 
戦前。土浦高等場学校(現:茨城県立土浦第二高等学校)の運動会の様子。

土浦高女秋季大運動会 秋のささやき 本二

 
戦前。土浦高等場学校(現:茨城県立土浦第二高等学校)の運動会の様子。

土浦高女秋季大運動会 体操 本一

 
戦前。土浦高等女学校(現:茨城県立土浦第二高等学校)の運動会。

土浦高女秋季大運動会 体操 本三

 
戦前。土浦高等女学校の秋の運動会。

土浦高女秋季大運動会 体操 本四

 
戦前。土浦高等女学校の秋の運動会。

土浦高等女学校・土浦高等女学校旧校舎

 
明治36年に土浦町前川町の民家を借用しての開校であった。38年に土浦中学校が真鍋台に転出するまで使用していた立田校舎に移転した。

土浦高等女学校遠足旅行観音山散歩 其二

 
土浦高等女学校は現在の土浦第二高等女学校(土浦二高)にあたる。

土浦高等女学校遠足旅行観音山散歩(観音堂集合) 其六

 
土浦高等女学校は現在の土浦第二高等学校(土浦二高)にあたる。

土浦高等女学校寄宿舎

 
県南女子教育の中心校として発展した高等女学校では、遠方から通学する女子のために寄宿舎が設けられていた。

土浦高等女学校記念館

 
このシリーズには、記念館内部の様子もみられる。

土浦高等女学校記念館階下

 
このほかに記念館外観や階上もみられる。

土浦高等女学校記念館階上

 
土浦高等女学校は明治36年5月1日に開校をし、明治38年に旧土浦中学校の立田校舎に移転した。

土浦高等女学校修学旅行(本三實二)河原子海岸 其の四

 
河原子海岸その4。砂浜がひろがる河原子海岸(現日立市)は、烏帽子岩や大島など景観にも恵まれ、海水浴場として賑わいをみせた。

土浦高等女学校修学旅行(本三實二)河原子海岸 其ノ三

 
河原子海岸その3。砂浜がひろがる河原子海岸(現日立市)は、烏帽子岩や大島など景観にも恵まれ、海水浴場として賑わいをみせた。

土浦高等女学校修学旅行(本三實二)河原子海岸 其ノ二

 
河原子海岸その2。砂浜がひろがる河原子海岸(現日立市)は、烏帽子岩や大島など景観にも恵まれ、海水浴場として賑わいをみせた。

土浦高等女学校修学旅行(本三實二)河原子真砂館撮影

 
河原子海岸その1。砂浜がひろがる河原子海岸(現日立市)は、烏帽子岩や大島など景観にも恵まれ、海水浴場として賑わいをみせた。

土浦高等女学校修学旅行(本三實二)水戸駅前撮影

 
水戸駅前での様子。この修学旅行のシリーズには、ほかに日立の河原子海岸がある。

土浦高等女学校秋季運動会

 
服装から明治時代末~大正時代前半のものと思われる。

土浦高等女学校秋季運動会(トンネル競争実二、三)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(ファウスト本四実三)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(架橋競争実三)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(海戦本四)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(球送り競争全体)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(教練本四)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(交換競争本三)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(行進遊戯本一実一)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(潜り抜け競争本二)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(達磨落し競争一実一)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(提灯競争職員)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(方舞全体)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季運動会(網引本三)

 
明治36年に土浦町前川町で開校した高等女学校は、明治38年に立田校舎に移転しました。県南女子教育の中心となります。

土浦高等女学校秋季大運動会(海戦本四)

 
戦前。土浦高等女学校の秋の運動会。

土浦高等女学校秋季大運動会(体操本二)

 
戦前。土浦高等女学校(現:茨城県立土浦第二高等学校)の運動会。

土浦高等女学校大運動会記念(聨合旗体操本一。二。三。)

 
「連合旗体操」とあり、日の丸を手にした女学生たちがみえる。大正5年(1916)11月3日の「立太子記念」スタンプが押されている。皇太子裕仁(ひろひと)親王の立太子礼を記念したもの。

土浦高等女学校長

 

土浦国民学校の校門の鉄扉

 
土浦国民学校(現土浦小学校)の校門の鉄扉。戦争の激化に伴い、金属回収に応じ供出された。

土浦祭礼絵図

 
江戸時代後期におこなわれた土浦祇園祭での行列を描いたものです。

土浦桜川の桜

 
「櫻川の名に負ふ花の新名所、舟に長堤を上下して移り行く花の影を追ふもよく、夜は幾百の 灯りが花に移り水に流れて、一入の風情がある」との解説がある。

土浦桜川上流の虫掛の関

 
虫掛付近の様子。四手網漁がさかんであった様子が分かる。

土浦桜川堤の桜

 
昭和6(1931)年に土浦貸船組合が組織され、貸しボートの料金が統一された。設定された料金は1時間につき20銭で、30分ごとに10銭増しとなった(昭和6年4月7日付「いはらき」新聞記事)

土浦市制施行記念式典会場

 
昭和15年11月3日土浦町と真鍋町の合併による式典会場となった亀城公園。この夜、市内は提灯行列でにぎわった。

土浦市役所

 
土浦市役所周辺(現関東つくば銀行)の様子。左側の建物は消防署。屋上の望楼は消防サイレンを鳴らす場所で、時報としても利用した。

土浦商工会主催の広告祭

 
各商店街による仮装行列が行なわれた。カフェーの従業員による仮装光景。当時、土浦は霞ヶ浦海軍航空隊の影響で、カフェーの全盛期であった。

土浦商工会主催の広告祭

 
広告祭に参加した人たちによる、亀城公園出発の光景。

土浦城西櫓の改装工事

 
昭和15年、西櫓の屋根漆喰・白壁等改装工事。

土浦城西櫓復元

 
亀城公園に建つ西櫓を復元する経過とその構造を解説した記録映像です。

土浦城跡(中央一丁目)

 
土浦城の遺構の解説映像で、東櫓・西櫓などの復元以前の亀城公園を撮影したものです。

土浦城東櫓復元

 
亀城公園に建つ東櫓の構造とその復元過程についての記録映像です。

土浦城址と亀城の雪景色

 
左手前から前面に本丸の濠、右後方に櫓門と新治郡役所。「(土浦名所)当城址ノ景」

土浦信用組合

 
旧土浦信用金庫(現水戸信用金庫土浦支店)。昭和15年頃は祗園町(現中央二丁目)にあった。

土浦神龍寺 絵はがき袋

 
神龍寺の絵葉書の袋(戦前)。6枚が確認されている。

土浦神龍寺 色川三中翁の碑

 
国学者の色川三中の顕彰碑である。三中の墓は神龍寺境内にある(土浦市指定文化財)。

土浦神龍寺 全景 

 
神龍寺は江戸時代の土屋家の祈祷寺であった。大正時代、住職の秋元梅峯によって、海軍航空隊の殉職者の慰霊と商店街振興のために花火大会が始められた。

土浦神龍寺 梅峯和尚の銅像

 
大正時代、住職の秋元梅峰によって、霞ヶ浦海軍航空隊の殉職者の慰霊と、関東大震災後の不況にあえぐ商店街の振興のため、花火大会が始められた。今日に続く「土浦全国花火競技大会」の始まりである。この像は戦時中に供出されたため、現在は新しく胸像が建てられている。

土浦神龍寺 飛行機より見たる全景

 
神龍寺は土浦城の西に位置する。お寺の右下にみえる平坦地は土浦城三ノ丸跡。

土浦神龍寺 宝珠鐘々楼

 
神龍寺は江戸時代の土屋家の祈祷寺でした。大正時代、住職の秋元梅峰によって、海軍航空隊の殉職者の慰霊と商店街振興のために花火大会が始められました。

土浦神龍寺 門前櫻並木

 
神龍寺は江戸時代の土屋家の祈祷寺でした。大正時代、住職の秋元梅峰によって、海軍航空隊の殉職者の慰霊と商店街振興のために花火大会が始められました。

土浦尋常小学校の運動会

 
大正天皇御即位記念奉祝運動会の女児の遊戯風景。校庭中央に柳の大木があった。

土浦銭亀橋附近洪水氾濫の景

 
大町から下高津方面。桜川の水位があがり、橋脚が水没している。絵葉書「土浦銭亀橋附近洪水氾濫の景」

土浦銭亀橋附近洪水氾濫の景

 
明治43(1910)年の洪水の様子を伝える絵葉書。桜川にかかる銭亀橋付近の様子で、背後には高津の台地がみえる。

土浦大洪水外西丁通の景

 
明治43(1910)年の洪水の様子を伝える絵葉書。外西町は現在の大手町から文京町付近にあたる。

土浦大洪水田宿裏町通の景

 
田宿裏町は現在の大手町付近。建物の入口には子供の姿

土浦大洪水田宿裏町通の景

 
明治43年(1910)の洪水の様子。田宿裏町は現在の土浦市大手町にあたる。

土浦大洪水田宿裏町通の景

 
田宿裏町は現在の大手町付近。建物の入口には子供の姿

土浦大洪水閘門内外逆水奔下の図

 
霞ヶ浦の逆水を防ぐために明治39(1906)年竣工した川口川閘門の扉をこえて水が町へ流れ込んでいる

土浦大洪水閘門汎濫の図扉上をこゆる事三寸餘

 
川口閘門を霞ヶ浦側からみたところ

土浦大洪水閘門汎濫の図扉上をこゆる事三寸餘

 
川口閘門を霞ヶ浦側からみたところ

土浦第一中学校

 
木造の二階建ての旧校舎。

土浦第五中学校

 
昭和24年に上大津中学校として建設。昭和29年に上大津村が土浦市と合併し、土浦市立第五中学校と改称。昭和54年に現在の校舎となる。

土浦第五中学校

 
昭和24年に上大津中学校として建設。昭和29年に上大津村が土浦市と合併し、土浦市立第五中学校と改称。昭和54年に現在の校舎となる。

土浦第三中学校校舎

 
昭和52年まで使用されていた校舎。

土浦第三中学校講堂

 
雨天の日に集会や学芸会等に使用していた建物。当時は旧海軍航空廠工員寮をそのまま教室に使用していた。

土浦第四中学校

 
昭和56年頃に取り壊された校舎。市立高校(現土浦三高)が大岩田に移転した後、昭和27年中家中学校(現土浦第四中学校)が開校した。

土浦第二小学校

 
土浦市役所から望む土浦第二小学校。校舎は昭和25年に建設され、昭和53年取壊された。

土浦第二中学校

 
昭和24年に建てられた校舎。昭和50年10月の新校舎完成に伴い解体された。

土浦第二幼稚園

 
昭和24年1月に土浦幼稚園分園として創立し、昭和26年2月土浦第二幼稚園として独立した。昭和56年鉄筋コンクリート園舎に改築。写真は改築前の旧園舎。

土浦地方のはたごしらえ

 
土浦地方のはたごしらえ

土浦中学校生徒の軍事訓練の様子

 
卒業アルバム掲載写真。戦局の拡大深化により、学校教練が重視され、年に一度の査閲(さえつ)は重要行事であった。県中等学校合同の秋季連合演習では実践的軍事訓練が行われた。

土浦中学校第1回卒業生

 
明治35(1902)年に旧制土浦中学校を卒業した学生たち。18歳から20歳の青年たちが思い思いのポーズをとっている。

土浦中学校第7回卒業記念写真

 
明治41(1908)年第7回生徒の卒業記念写真。学生帽に学生服姿である。土浦市市制施行前の真鍋町最後の町長菊田禎一郎家旧所蔵写真。前から3列目、右から4人目が禎一郎氏。

土浦中学校二十周年紀念 福山前校長・幸津現校長・遺澤前校長

 
茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)の20周年を記念して発行された絵葉書のうちの一葉。歴代校長の写真がのる。

土浦中学校二十周年紀念(校舎正面) 

 
土浦中学校は立田町にあったが、真鍋台に新校舎が建設され、明治38年3月に移転した。茨城県技師駒杵勤治により建てられた新校舎は、国の重要文化財に指定されている。

土浦中学校二十周年紀念(校舎裏面) 

 
茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)は、明治33(1900)年4月1日、茨城県立尋常中学校土浦分校を改称して開校に至った。明治38年の3月にゴシック様式を取り入れた真鍋台の新校舎(写真の建物)に移った。茨城県技師駒杵勤治により建てられた新校舎は、国の重要文化財に指定されている。

土浦中学校二十周年紀念(職員生徒) 

 
茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)は、明治33(1900)年4月1日、茨城県立尋常中学校土浦分校を改称して開校に至った。明治36年、立田町にて新校舎が整備されるが、同38年の3月にゴシック様式を取り入れた真鍋台の新校舎(写真の建物)に移った。

土浦町 霞月楼

 
霞月楼は明治22(1889)年の創業で、土浦を代表する料亭である。霞ヶ浦海軍航空隊に着任した山本五十六ら海軍の幹部仕官もたびたび訪れた。

土浦町 霞月楼

 
霞月楼は明治22(1889)年の創業で、土浦を代表する料亭である。霞ヶ浦海軍航空隊に着任した山本五十六ら海軍の幹部仕官もたびたび訪れた。

土浦町の民間自動車第1号

 
大町の浅野弥右衛門が購入した自動車。浅野は当時茨城自動車株式会社を坂野五兵衛・海上勘四郎とともに設立。土浦、筑波間の乗合自動車をはじめたが、1年余りで中止。

土浦町消防組幹部

 
土浦町には11の消防部があった。部長・組頭は黒の制服、一般組員はハッピ姿。後方は、一室に土浦図書館があった町役場である。

土浦町奉献花崗岩石灯篭

 
土屋家宝物殿の竣工を祝って土浦町が奉献した灯篭。

土浦町役場前の濁水

 
前川町(現中央二丁目)にあった土浦町役場(現関東つくば銀行)の浸水状況。 絵葉書「(土浦町大洪水)土浦町役場前の濁水 昭和十三年六月三十日」

土浦堤の桜 CHERRY-BROSSOMS OF THE TSUTIURA BANK

 
桜川堤の花見風景。土浦の料亭「霞月楼」の大きな雪洞【ぼんぼり】がみえる。右手は昭和8年(1933)に架けられた匂橋。匂橋は木橋で、水郷土浦の花見の名所としてにぎわった。

土浦堤の桜 CHERRY-BROSSOMS OF THE TSUTIURA BANK

 
満開の堤防を多くの人が行きかっている。昭和7年(19322)には臨水遊歩路が完成し、水際からも桜を楽しめた。正面にかかる橋は、昭和9年に開通した国道6号の土浦橋である。

土浦堤の桜 CHERRY-BROSSOMS OF THE TSUTIURA BANK

 
戦前の桜川の花見風景。屋形船や貸しボート、霞ヶ浦沿岸各地からの船もでて、水上から花見を楽しむ人々がいた。

土浦堤の桜 CHERRY-BROSSOMS OF THE TSUTIURA BANK

 
咲きそろう桜の堤に多くの見物客が行き交っている。桜川堤の桜は航空隊・水郷・筑波山といった周辺の観光資源とともにクローズアップされ、春の土浦の一大イベントとなっていた。春は花見、秋は花火である。

土浦堤の桜 CHERRY-BROSSOMS OF THE TSUTIURA BANK

 
戦前の桜川の花見風景。水郷汽船による観桜汽船の発着場付近とみられる。堤防にも川にも人が多く出ている。貸しボート屋が数軒あり、ボートをこぎながらの花見が人気であった。

土浦道中絵図

 
土浦藩主の土屋篤直が水戸街道の道筋や集落の様子を描いたものです。

土浦入り〜筑波山

 
霞ヶ浦の土浦入りから筑波山まで、桜川をたどる空の旅です。周辺にはこの地域の古代・中世を考えるうえで貴重な史跡が残されています。

土浦農商銀行

 
明治40年土浦の有志によって創立された銀行。旧仲町(現中央二丁目)にあった。

土浦八景 下田の落雁

 
下田は現在の文京町付近の旧町名である。江戸時代に上沼があった場所で、写真の当時は一面の水田であった。具体的な撮影地は不明。

土浦八景 霞か浦秋月

 
霞ヶ浦の月。おそらく月は描きこまれたものと思われる。実際に使用された絵葉書である。

土浦八景 旧城の暮雪

 
土浦八景シリーズの一葉。雪の土浦城址。奥に見える建物が櫓門である。手前の土塁上に鐘楼と東櫓があった。

土浦八景 銭亀の夕照

 
土浦八景シリーズのひとつ。旧水戸街道にかかる銭亀橋付近からみた桜川の風景。正面の社(森)は大町の道祖神とみられる。

土浦藩校郁文館玄関

 
天保10年に建てられ、明治4年の廃藩置県とともに廃館となった。その後、新治師範学校等に利用。昭和10年老朽化により取り壊された。

土浦北門の松

 
旧国道六号にあった松の木。国道の開通は昭和9(1934)年のことで、昭和12年の台風によってこの松は倒木した。

土浦繭糸市場

 
大正6年8月に、豊嶋庄十郎が創立した土浦繭糸市場。大八車に乗っているカゴは、川口川を使って運ばれてきた出荷を待つ繭。右下には船からカゴを揚げている所が見える。

土浦繭糸市場

 
大正6年8月豊島庄十郎により創立。繭乾燥の設備があった。沢山のまゆかごを積んだ大八車が集まってきているところ。手前にあった川口川は埋め立てられている。昭和11年10月閉鎖。

土浦繭糸市場

 
大正時代末期に写真のような取引市場を新築。昭和初期にこの市場の取引高は最高になり、4年には勅使が派遣されるほどであった。豊嶋は繭取引以外の時期は百貨店を経営していた。

土浦繭糸市場

 
豊嶋庄十郎は各地の視察や研究をし、関西や信州に範を採りながら、経営に努力した。結果、創業当初の仲買人や買次業者の非難の声も消え、数年のうちに土浦集散繭全額の約半分を取引するに至った。

土浦名所 花ノ桜川

 
堤防上に小屋がけをした店が並ぶ。昭和7年以前は堤防内や対岸にも出店されていたが、水際の風致を損なうことから出店できる地点が左岸の堤防上に限定されることとなった。

土浦名所 花ノ桜川堤

 
桜のトンネルを行き交う人々のなかに水兵の姿がみえる。左手のベンチには「土浦自動車」の文字がみえる。

土浦名所 霞ヶ浦

 
手前には投網をする漁師が、奥には棹をさす人の姿がみえる。舟の中央にみえる漁具はアジャラであろうか。

土浦名所 公園の寄り木

 
櫓門と公園の宿り木。宿り木はクロマツの幹にエノキが着生した共生木。昭和33年に茨城県指定天然記念物となったが、枯れて伐採され、昭和59年に指定が解除となった。櫓門の前の堀は埋め立てられている。

土浦名所 川口町通り

 
朝日橋から望んだ川口川の風景。奥にみえる祗園橋の脇には警察署の物見櫓が立ち、さらに豊島百貨店の建物がみえる。川には水上に突き出たバラックと言われた棟割長屋式の店が立てられていた。

土浦名所 銭亀橋(土浦駅前東郷館)

 
旧水戸街道で桜川にかけられた橋が銭亀橋であった。昭和9年に国道の土浦橋ができるまで、土浦と高津を結ぶ主要な橋であった。

土浦名所 銭亀橋(土浦駅前東郷館)

 

土浦名所 土浦旧城

 
土浦城の西櫓。こののち昭和24年のキティー台風で破損して解体されたが、平成になって復元整備された。

土浦名所 土浦町全景の一部

 
旧土浦警察署の火のみ櫓から桜橋方面を望んだもので、手前左側に豊島百貨店、中央に川口川と桜橋がみえ、後方には土浦町役場が見える。昭和10年、川口川の埋め立てによる祇園町の誕生まで、桜橋までのぼってくる小舟があった。右岸にはバラックが並んでいる。亀城通りが完成していないころの町並みである。

土浦名所 土浦町全景の一部

 
川口川に沿って並ぶ町並みの背後に霞ヶ浦がみえる。中央の橋は朝日橋。手前の看板には「繭市場」(豊島百貨店)の文字がみえる。

土浦名所 土浦堤の桜 絵葉書袋

 
桜川堤の桜の様子を被写体とした絵葉書6枚が収められていた絵葉書袋。

土浦名所 鷲の宮神社

 
土浦市東崎町にある鷲の宮(鷲神社)の境内。鷲の宮は江戸時代の土浦八景のひとつ「鷲宮夜雨」にも選ばれている。

土浦名勝 勢至ヶ峰 小松二十三夜尊の風光 (特製一組)

 
絵葉書袋

土浦郵便局

 
昭和12年に現在の川口一丁目に竣工した土浦郵便局舎。土浦市の人口増とともに郵便業務も増え、局舎も狭くなり、昭和41年、城北町の現在地に移転した。

土浦郵便局

 
昭和3年まで内西町(現中央一丁目)にあった土浦郵便局。現在のかどや文具店隣りにあたる。郵便局は、内西町→本町(現中央一丁目、日本生命の所)→川口町(現川口一丁目、高架橋下十字路)→城北町と移転。

土浦幼稚園

 
明治18年9月創立で、茨城県最初の幼稚園。写真は大正13年3月に完成した園舎。昭和10年土浦小学校付属幼稚園を土浦幼稚園と改称。昭和55年に校舎新築。

土浦幼稚園

 
土浦幼稚園は、明治18(1885)年茨城県で最初の創立。写真は大正13(1924)年建築で、イタリアの教育家マリア・モンテッソーリの提唱した「こどもの家」を模範とした園舎。

土浦幼稚園の保育光景

 
昭和3年頃の土浦幼稚園園庭での保育風景。

土浦幼稚園前での記念写真

 
大正時代の園舎前での記念写真。障子張りの遊戯室が見られる。

土浦櫻川の櫻

 
昭和6(1931)年に土浦貸船組合が組織され、貸しボートの料金が統一された。設定された料金は1時間につき20銭で、30分ごとに10銭増しとなった(昭和6年4月7日付「いはらき」新聞記事)

土屋政直

 
土浦藩土屋家二代藩主の土屋政直は、老中職を30年余り勤めました。「茶の湯心」を重んじた藩主としても語り継がれていきます。

土橋

 
土浦から小松三夜尊下にぬける道の備前川に架けられた土橋。前方の土堤は常磐線。その先は藤塚山(現土浦市役所)。

東京電機製造株式会社土浦工場

 
昭和12年土浦での工場誘致第1号。中高津二丁目の旧六号国道沿いに東京都千住より移転。工場内に工員養成の電気学校があった。主たる製品は船舶用発電機。昭和50年つくば市上野に移転。

東郷義会の集い

 
東郷平八郎崇拝者による集い。中央の和服姿が東郷元帥、その左が笹部土浦町長。

東光寺(大手町)

 
東光寺は土浦城南門の近くにあり、境内には土浦城の土塁の一部が残されています。

東崎の鷲の宮

 
鷲の宮は土浦八景の一つ『鷲宮夜雨』にも数えられた。当時この周辺には人家もなく、遠くに常磐線の土手が見える。

東崎の鷲の宮

 
東崎の鷲の宮。鷲の宮は土浦八景の一つ『鷲宮夜雨』にも数えられた。

東崎川

 
鷲の宮付近の川の様子.。左手の木立が鷲の宮神社。右には漁舟が見える。

東小学校

 
東小学校の空撮。校庭の左隅にまだ民家が残っている。

東洋第一 霞ヶ浦海軍飛行場写真  拾貳枚壹組定價金貳拾銭

 
絵葉書袋。裏面に朱字で「拾二枚壱組定価金二十銭」とある。飛行場開場時の絵葉書を含む。

等覚寺(大手町)

 
銅鐘は国指定重要文化財です。極楽寺から土浦城を経て明治17年に等覚寺に移されました。

藤川干拓工事堤防仮締め切り

 
霞ヶ浦前谷原(現港町)17町歩の干拓工事。土木請負業藤川捨吉の個人事業で、桜川改修工事をしていた藤川組がその浚渫(しゅんせつ)土を使って干拓した。戦後市の事業で宅地として造成し分譲され、港町となった。

藤塚山と土浦第二小学校

 
富士崎二丁目付近の様子。一面の水田であった。左の丘が藤塚山で、現在土浦市役所が建てられている。右手が土浦第二小学校の校舎。

藤塚山展望(その1)

 
藤塚山(現市役所)から霞ヶ浦海軍病院(煙突の見えるところ。現霞ヶ浦医療センター)を望む。

藤塚山展望(その2)

 
藤塚山(現市役所)から筑波方面を望む。手前の柵は高橋牧場。桜川にかかる銭亀橋も見える。桜川の手前の水田は埋め立てられ、現在はひばり団地ほか民家が建てられている。

特設演芸場か

 
「土浦見番の仮設演芸場では絶えず自慢の『土浦音頭』の外に新作五種を加え美妓三十名の手踊は群衆を満悦させ、なほ商工会主催のさくら音頭舞踊大会、町内商店連盟主催の女チンドン屋三十余名の街頭踊り、それに猿犬芝居等の興行ものもあり観衆は花と酒と踊りの渦にまったく陶酔しきった」(「いはらき」新聞昭和9年4月16日付)

特設演芸場か

 
花見期間には堤防やその周辺に特設演芸場が設けられたという。「土浦見番でも観桜客歓待のため特設された演芸場で、日に五回三十余名の美妓によって自慢の『土浦音頭』と『霞音頭』を演じている。(「いはらき」新聞昭和8年4月16日付)

苫舟

 
大正時代まで舟を住居として、霞ヶ浦で漁をして暮らしていた水上生活者があった。その舟が苫舟。

奈良・平安時代

 
手野台地にある2つの集落遺跡です。火葬の風習にともなう蔵骨器(骨壺)が出土しました。

内西町通り(現中央一丁目)

 
土浦幼稚園のところから裁判所方面を見たところ。右側の片岡洋品店の隣りが土浦郵便局。

縄文時代(後期-晩期)

 
上高津貝塚は桜川流域ではもっとも規模が大きな貝塚です。国指定史跡で隣接して考古史料館があります。

縄文時代(前期)

 
烏山貝塚の貝はいずれも海からとれる貝で、縄文時代前期の繊維土器が見つかっています。

縄文時代(早期)

 
ゴリン山遺跡と真木ノ内遺跡は手野台地の北西部に位置します。縄文時代早期の尖底土器が見つかっています。

縄文時代(中期)

 
栗崎遺跡は土浦市宍塚に位置します。縄文時代中期の土器は装飾性がとても豊かです。

南川口の浸水状況

 
南川口(現日高病院前付近)の浸水状況。中央手前に人力車。右側に出航休止の汽船。

二階に避難

 
八間道路沿い(現桜町二丁目)の洪水の状況。2階に避難する人々の様子。

二十三夜尊(小松三丁目)

 
霞ヶ浦を望む勢至ヶ丘に位置し、鎌倉時代の作とされる仏像があります。

匂橋

 
洋装・和装姿の男女が行き交う。匂橋の完成は昭和8年(1933)3月20日。「風雅な木橋だけに水郷土浦の風情を一層濃くし、その名も桜川に匂橋、いかにも春らしい感じだ」(いはらき新聞、昭和8年3月19日付)

匂橋・桜・ぼんぼり

 
日傘をさした女性の脇には大きめの雪洞(ぼんぼり)がたち、「山は富士 酒は白雪」とよめる。堤防下段の臨水遊歩路は昭和7年県土木課がつくったもの。堤防の混雑緩和や変化付けがねらい。

匂橋から見た市街

 
栄町(現桜町二丁目)。桜川を背にして見る洪水の状況。

匂橋とボート

 
川岸を歩く女性、ボートに乗る人々。前方の匂橋の完成は昭和8年3月。

匂橋のたもと

 
匂橋のたもと(土浦町側)。桜のトンネルには小さな雪洞(ぼんぼり)が数多く吊り下げられている。堤防には水兵の後姿も見られる。

日新楼(料亭)

 
日新楼の建物。風格のある建物と評判で、東宝映画『樋口一葉』(山田五十鈴主演)のロケ地になったこともある。

農家用の馬車

 
戦後耕耘機(こううんき)が普及するまで、農家にとって牛や馬は、農作業に欠かせないものだった。収穫物や肥料等の運搬、田畑の耕作にと、広く利用していた。

白黒テレビ

 
白黒のテレビ。リモコンはなく、ダイヤルを回してチャンネルや音量を選んだ。日本のテレビ放送は昭和28年(1953)に始まったが、当初は値段が高くてなかなか買うことができなかった。

白鳥冨岡家のウジガミまつり

 
冨岡家にとって旧暦9月13日は5つの屋敷神をまつる特別な日です。

白鳥冨岡家のエビス様大黒様

 
旧暦10月20日のエビス様と12月8日の大黒様についてご紹介します。

白鳥冨岡家の正月行事

 
門松、御注連、初詣、一鍬、鏡開、ならせ餅などの正月行事をご紹介します。

白鳥冨岡家の盆行事

 
冨岡家での盆行事について、準備から先祖の迎え、送りまでをご紹介します。

白鳥冨岡家の歴史と概要

 
数多くの年中行事を制作した白鳥町の冨岡家を紹介する映像です。

八坂神社(真鍋五丁目)

 
真鍋台にある土浦城守護の鎮守で、祇園祭礼では御輿が城内に入りました。

帆曳き船

 
霞ヶ浦の風物詩、帆曳き船の作り方や仕組み、実際の操業方法をご紹介します。

帆曳船

 
昭和30年代まで見られた帆曳船によるわかさぎ漁。

般若寺(宍塚町)

 
鎌倉大仏を鋳造した名工丹治久友によって作られた銅鐘で有名な寺院です。

般若寺と東城寺

 
13世紀に真言律宗の東国における拠点として東城寺や般若寺がありました。

般若寺釈迦堂

 
享保初期に、江戸の伝法院の釈迦堂を移築。昭和50年に台風により屋根を飛ばされたため解体。現在のものは仮堂。

飯田の虫送り

 
飯田では「アブラムシ」と呼ばれる虫送りの行事が行われています。

飯田の祗園

 
3日間にわたって行われる飯田の祇園祭りをご紹介します。

飛行訓練

 
霞ヶ浦飛行場の飛行訓練で、アプロ練習機が活躍したころの様子。

飛行船のゴンドラ

 
ゴンドラは操縦室と指令室キャビンを兼ねた。乗員は、エッケナー博士以下53名、その中に本市在住であった藤吉直四郎海軍少佐(後の土浦海軍航空隊司令、少将)が同乗。

飛行船の見送り

 
ツェッペリン伯号を見送る航空隊関係者。

飛行練習生生活写真

 
左は海軍航空隊本部でその前にあるのは雄飛の松で、紀元二六〇〇年記念行事(昭和15(1940)年)の一環として植えられ航空隊のシンボルとなった。下は号令台で、昭和17(1942)年に昭和天皇がこの台上にお立ちになり、予科練生の体操を視察している。

飛行練習生生活写真

 
木銃をもちいた訓練や、剣道や柔道などで錬成された。

飛行練習生生活写真

 
体操や掃除の様子。朝礼後に海軍体操が行われ、引き続き各所の清掃がなされた。

飛行練習生生活写真

 
予科練習生教程の教育では操縦組と偵察組とに進路をわけるための飛行適正検査(飛適)の時に教員と同乗し、指示により操縦を実施することが行われた。実際の操縦は予科練卒業後の飛行練習生教程から学んだ。

飛行練習生生活写真

 
食事の様子や吊床(ハンモック)による就寝がわかる。

飛行練習生生活写真

 
水泳、器械体操、飛び込み、ラグビーなどがおこなわれた。

飛行練習生生活写真

 
座学としては通信、軍制、航空などがあり、主に午前中に行われた。

飛行練習生生活写真

 
カッターとも呼ばれる短艇での訓練。

飛来したアルゼンチン機

 
昭和初期、霞ヶ浦海軍航空隊にはイギリス・アルゼンチン・イタリアなど世界各国の航空機が飛来し、霞ヶ浦は世界に知られるようになった。

飛翔準備中の飛行船

 
離陸準備中のAT飛行船。

氷冷蔵庫

 
上段の扉の中に氷を入れて、下段に入れた食品などを冷やした。上段には溶けた氷の水を排水する溝がある。氷は氷屋から買ってきた。現在の電気冷蔵庫のように食品の保存や保冷に優れていなかったことや、家庭用の氷冷蔵庫は高価であったことから、どこの家でも使用されたものではなかった。昭和30年代に入ると、電気冷蔵庫が普及により使用されなくなった。

苗抜きと田植え

 
苗代の管理方法、本田の代かき、田植えまでを説明します。

富士崎町常磐線ガード

 
大正末期のガードを阿見方面から望む。この頃はまだ富士崎町はなく、現在のガードに比べて半分位の小さいものであった。

冨岡家の年中行事―家を守る十四の神々

 
冨岡家に祀られている14の神々と、冨岡家の一年間の年中行事を記録した映像です。

冨岡家住宅(白鳥町)

 
白鳥町にある大規模農家建築で県指定文化財です。

敷島町(現桜町一丁目)付近

 
敷島町(現桜町一丁目)付近の洪水の状況。このあたりも船で往来するしかなかった。

父親と遊ぶ子ども達

 
桃太郎の面をかぶって親子での鬼退治ゴッコをしているなごやかな一こま。父親が鬼、子どもたちが桃太郎一行のお面を各々つけている。

腹掛

 
明治30年生まれの土浦町の大工棟梁が使用していた腹掛。

平将門の乱

 
平将門の乱について経過を振りかえります。

舗装前の桜川橋

 
旧敷島町(桜町一丁目)から富士崎町方面を望む。後ろに見える右側の森は土浦市役所、左側は小松の台地である。

報国同志会

 
太平洋戦争中、上高津の青壮年により結成された。畑を共同耕作して、主にサツマイモを燃料用アルコールの原料として栽培した。後ろに積んであるのは供出用の芋俵。

宝積寺(木田余町)

 
鎌倉時代に小田宗知によって建てられ、明治時代に現在地に再建されました。

法泉寺(大岩田)

 
四足門はその豊かな装飾性から日暮門とも呼ばれました。門の一部が保存されています。

豊島製糸工場

 
現富士崎二丁目JRバス車庫の場所にあった製糸工場の外観。

豊島百貨店

 
左の建物は大正11年完成、次いで右の4階建ての建物が完成した。2・3階は、各種の催し物に利用し、ビリヤードなども備えた個人経営の百貨店で、地方には珍しい存在であった。

豊島百貨店

 
大正6年に豊島庄十郎によって、土浦繭糸市場が開かれた。春・秋の繭取引期間以外は百貨店として営業していた。

豊島百貨店

 
桜橋からみた豊島百貨店方面。祇園町ができる前、川の上に突き出たバラックといわれた棟割り長屋式の店が建てられていた。

豊島百貨店

 
豊島百貨店と本町通り。祇園町の商店街は整備され、道路の両側にはポプラ並木が続いている。豊島百貨店は戦時中に経営不振になり、戦後は経営者が変わり霞百貨店、後に京成百貨店となった(現在は駐車場)

豊島百貨店の夜景

 
見事なイルミネーションに飾られた豊島百貨店の夜景。鉄筋3階建てのこの建物は土浦のシンボルになっていて、百貨店は土浦最初の大型店舗として注目に値するものであった。

豊島文化住宅付近

 
豊島文化住宅(現土浦NTT付近)の浸水の状況。

北浦の神宮橋

 
「古風な橋柱が対岸の単調さに引き立って好い対象をみせている、櫓声湖心をわたって水郷の朝は静かだ」

北浦の神宮橋

 

北太平洋横断 東洋訪問 リンデイ機 

 
絵葉書袋。表には「北太平洋横断 東洋訪問 リンデイ機」とあり、裏面には手書きで「昭和六年八月二十六日午後二時九分霞ヶ浦着 リンデー機到着記念」とある。収集時は絵葉書3枚が収められていた。

堀(川)の上にできた街(祇園町) 昭和39年 

 
京成デパート屋上から土浦駅方面を望む。左前方のパチンコ三愛がある所がかつての祇園町で、現在はモール505.

本町通り

 
本町通りの祇園祭り風景。桜橋から本町通り商店街を望む。左の建物は松庄旅館(現UFJ銀行)、右は中清呉服店。手前に桜橋の欄干。

盆綱

 
土浦市佐野子では毎年8月13日に盆綱を作る。夕方、子供たちが盆綱をもって墓地に行き、墓地を周回して先祖の霊を乗せ、各家に送り届ける。佐野子の盆綱は、胴体部分となる綱とは別に、竹を芯にして龍の頭を作り出すのが特徴である。口の部分はサンダワラを半分に折って作り出している。

繭市場への出荷

 
養蚕全盛の時代。繭袋を竹かごに詰め荷馬車で繭市場に出荷した。1かご詰め50kg位。当時繭は農家の現金収入の最たるものだった。

湊の海門橋

 
「那珂川の河口を跨ぐ、白虹の如き長橋、万里の海風古松を撫でて、河身をすべる汽艇に砕け散る水泡も快い。」

明治35年土浦小学校高等科4年

 
明治19年小学校令により小学校は尋常科4年高等科4年に定められた。明治43年に尋常科6年の義務教育になるまで、4年生の制度は続いた。

明治39年八坂神社祭典

 
当番町であった中城町青年の祭姿。写真の人形は有名な江戸の人形師泰精斎古川長延の作。源三位頼政と早太のぬえ退治の人形で、後方の幕にその名を書いた看板がある。

明治43年の水害

 
大町から下高津方面。 絵葉書「土浦銭亀橋附近洪水氾濫の景」

明治時代の亀城櫓門

 
右手前は宿り木、後方は明治17年の火災の後に、本丸内に建てられた新治郡役所。

明治時代の本町(現中央二丁目)

 
中西履物店、寺田書店、影山菓子店などがならぶ町並み。現在の茨城県信用組合土浦支店付近。絵はがき「常陸国土浦町寺田書店附近ノ景(寺田書店発行)」

明治大正の土浦

 
近代化する土浦の歴史をコンパクトにまとめた解説映像です。

明治末から大正初期の服装

 
正月の正装をした家族そろっての記念写真。男児は袴姿、女児は着物の上に被布(ひふ)を着ている。

明治末期の土浦駅前通り

 
土浦駅からみた駅前通り。右の建物の手前が、現りそな銀行。

明治末期の土浦局の電話番号一覧表

 
土浦局電話番号表。1番から75番までが掲載されている。公共機関のほか、地元の名士の名が見られる。

模型飛行機大会

 
航空熱を高揚するため、中城グランド(現警察署あたり)で行われた模型飛行機大会の記念写真。

木炭の俵詰め

 
神立町の農家が、共同で木炭を焼き、俵詰めにしているところ。昭和16年頃、木炭は食物の煮炊きや暖房には重要な燃料であった。特に農村での養蚕には欠かせないものであった。

木田余城跡(木田余町)

 
信太氏の居城でしたが佐竹氏により滅ぼされ、堀も埋められてしまいました。

籾すり等の作業

 
中家村矢作青年会が10アール程の水田を共同耕作し、その収益を会の活動資金にあてた。左が籾がらをはがす土(ど)ずるす。中央がその籾がらを吹き飛ばす唐箕(とうみ)、右は米を選別する千石どおし。

門付けばやし

 
神社の境内や当番の家などに練りこむときに演奏されます。

弥生時代

 
永国町の永国遺跡は縄文時代から古墳時代の遺跡ですが、ここでは弥生時代の代表的な遺跡としてとりあげています。

弥陀堂(粕毛町)

 
粕毛町にある阿弥陀堂です。阿弥陀如来立像や懸仏は市指定文化財です。

矢口家住宅(中央一丁目)

 
中城通りにある県指定文化財です。防火のために土蔵造りを採用しています。

矢口酒店 

 
中城通りにある県指定文化財「矢口家住宅」。土浦では天保12(1841)年の大火後、土蔵造りと瓦葺屋根の町屋が出現するが、その代表的な建物。

矢作の弓神事

 
矢作の鹿島神社では「的ぶち」と呼ばれる弓神事が行われています。

躍進土浦 商業の中心亀城通り

 
亀城(きじょう)通りは、土浦町東側の常磐線土浦駅と西側の国道6号線とを結ぶ通りであった。豊島百貨店(左手奥の建物)などもこの通りに位置した。

躍進土浦 川口より亀城通りを望む

 
昭和10年代の川口川最奥部(現在のモール505入口、セントラル前)。正面にみえる建物は旧常盤銀行土浦支店で、昭和10年に他行と合併して常陽銀行が誕生したため民間に売却されていた。

躍進土浦 中城町より本町通りを望む

 
中城町の通り(まちかど蔵大徳の北辺り)から本町方面(土浦商工会議所前の屈曲する部分)を望んだ様子。バスが曲がっている地点が桜橋(亀城通り)である。

躍進土浦 土浦駅

 
土浦駅の軍艦型をした駅舎は昭和11(1936)年に完成した。霞ヶ浦海軍航空隊への玄関口となる駅であったことから、この形が採用されたといわれる。

躍進土浦 土浦亀城公園寄り木

 
亀城公園は昭和9(1934)年に整備が行われた。明治時代に埋められた太鼓櫓(櫓門)の前の堀を掘返したり、ひょうたん池が造成されたのもこの時で、公園としての体裁が整った。

躍進土浦 土浦紅葉ヶ岡公園 故色川三郎兵衛翁銅像

 
色川三郎兵衛は常磐線敷設の際、湖岸堤防をかねた線路の建設を主張。土浦町を洪水の被害から救った人物として顕彰されている。戦時中に供出され、現在は湖岸に銅像が再建されている。

躍進土浦 土浦紅葉ヶ岡公園より土浦町全景を望む

 
下高津の紅葉ヶ丘より望んだ土浦町。手前が下高津の集落で茅葺屋根の建物もみえる。桜川の堤防には桜並木がみえ、その背後に土浦町が広がっている。

躍進土浦 土浦町川口

 
川口川の河口の様子。手前には土浦と湖岸の町を結んだ「あやめ丸」の姿がみえる。中央の橋は港橋で、大型の船が行き来できるように中央が高く作られた太鼓橋であった。

躍進土浦 土浦町川口

 
船を下りる海軍航空隊の人々。海軍航空隊の玄関口となったことが、土浦町のさらなる発展につながった。

躍進土浦 土浦郵便局より亀城通りを望む

 
左側は祇園町の商店街で、現在のモール505入り口の広場付近にあたる。霞人形制作所の看板がみえる。たにしで作る霞人形は昭和9年に製作が開始され、郷土工芸品として予科練の面会に訪れた人々などが買い求めた。

躍進土浦 風光明美の土浦川口

 
昭和時代初期の河口の様子。写真にも写る「あやめ丸」などが麻生・牛堀・潮来さらに鹿島方面と土浦を結び、霞ヶ浦観光の一時代をつくった。船着場の脇には人力車もみえる。

躍進土浦 櫻川銭亀橋の全景

 
桜川にかかる木橋。江戸時代の土浦で桜川にかけらた唯一の橋。右側が大町、左側が下高津になる。川で漁をする人影がみえる。

躍進土浦 櫻川土浦橋

 
国道6号にかかる土浦橋は昭和9年5月に完成した。後方に見えるのは旧水戸街道にかかる銭亀橋である。

遊技(オーバーゼヤー) 四年 土浦高等女学校

 

遊技(カマリンスカイヤー) 三年 土浦高等女学校

 
カマリンスカイヤという曲にあわせた遊技。

遊技(ポルカ・カケッカ) 一年 土浦高等女学校

 

遊技(ヨウシヤ・ライゲン) 二年 土浦高等女学校

 

遊技(胡蝶) 三四年 土浦高等女学校

 

遊星競争 全校 土浦高等女学校 

 

遊覧船

 
「花見乗合遊覧船」の看板が掲げられた遊覧船乗り場。「水郷汽船が新しく試みた一区五銭の遊覧船も満員の盛況」(「いはらき」新聞昭和7年4月1日)から、看板の文字は「一区五銭均一 午前八時」か。堤防階段下は切符売り場であろう。

郵便局集配の人達

 
戦時体制なので足にゲートルを巻いている。

幼稚園と学校のこと

 
土浦幼稚園での教育や、土浦中学校入学の想い出、戦時下の学校生活などを語っていただきました。

利根川

 
「長堤を洗い、葭の洲を浸して悠々と流るる大江。苫船の帆綱が漂々と風に鳴る。

煉瓦造りの建物

 
内西町(現中央一丁目)の野村商店の煉瓦造りの倉庫。野村商店は専売品の塩の県南地方での卸元。右側煉瓦造りの倉庫には店の前からトロッコの線路が引かれており、大量の塩を運び込んでいた。煉瓦造りは明治30年代の流行。市内に多くあった。

蓮掘り鋤

 
現在、霞ケ浦周辺の蓮田では、ジェットポンプで土壌に水圧をかけてレンコンを収穫する方法(水掘り)がとられている。しかし、ポンプが導入される以前は、水を抜いた蓮田で、手掘りでレンコンを掘り上げていた。レンコン掘り用の鋤は、そうした手掘り時代の道具で、扁平な鋤先の部分で周辺の土を動かして収獲した。

蓮掘り万能

 
蓮掘り用の鋤に続いて使用されるようになった、レンコン収獲の道具。水を抜いた蓮田のなかで、周囲の土を除けながら収獲をした。蓮掘り様の万能は1970年頃に土浦の農家の人々がレンコン栽培の先進地である九州で入手して持ち帰り、これを阿見町の鍛冶屋に頼んで製作してもらい普及するようになった。鋤にくらべて取り扱いが容易で作業効率はあがったが、水圧ポンプの普及により使用されなくなった。

蓮掘り万能(再現)

 
蓮掘り用の鋤に続いて使用されるようになった、レンコン収獲の道具。水を抜いた蓮田のなかで、周囲の土を除けながら収獲をした。蓮掘り様の万能は1970年頃に土浦の農家の人々がレンコン栽培の先進地である九州で入手して持ち帰り、これを阿見町の鍛冶屋に頼んで製作してもらい普及するようになった。鋤にくらべて取り扱いが容易で作業効率はあがったが、水圧ポンプの普及により使用されなくなった。 粘質土と砂質土で刃の幅が異なり、土質によって使い分けた。

櫓門(太鼓櫓)と郡役所

 
大正時代の櫓門と新治郡役所。

鷲の宮神社の節分

 
東崎町の鷲の宮神社では節分の日に厄年の人が豆をまきます。

鷲海ノ監揺羹土浦海軍航空隊 絵葉書袋

 
絵葉書袋。昭和15(1940)年に土浦海軍航空隊は独立をした。予科練の名で知られた。

鷲神社(東崎町)

 
東崎の氏神で境内には市内最古の年紀をもつ石碑が残されています。

俚謡に名高き 水郷の勝景 FINE SIGHTS OF SUIGO 十六枚組

 
16枚入りの袋。戦前。

疱瘡ばやし

 
疱瘡とは天然痘のこと。疫病の神様をまつるお囃子です。

疱瘡ばやし(踊りと歌)

 
保存会顧問の伊藤光雄さんの母親の記憶や八郷地方に伝わったものを参考に復活させた歌と踊りを取り入れて昭和40年代に復活した。

祗園橋

 
現在高架道がカーブする、TCビル付近の様子。左側に土浦農商銀行や永井醤油店が見える。

祗園祭礼(外西町)

 
大正時代の祇園祭り。山車の前に勢揃いしたところ。山車の左側に仮小屋が見える。

祗園祭礼(荒川沖)

 
荒川沖の国道125号線(旧6号)、郵便局前付近。戦時中には中断していた祇園祭が、戦後復活して青年会を中心に賑やかに行われた。

祗園祭礼(小桜町)

 
第二次世界大戦後復活した土浦祇園祭。小桜町(桜町4丁目)の獅子屋台前に勢揃いした光景。

祗園祭礼(大町)

 
山車の前に勢揃いした光景。当時の山車はほとんどが3層のもの。昭和になって電線等の関係で低い形のものに変わってきた。

祗園祭礼(大和町)

 
土浦駅前に勢ぞろいした大和町の獅子。後方に「八坂神社」とかかれた仮設の鳥居が見える。

祗園祭礼(東崎町)

 
旧霞ヶ浦劇場前の広場(土浦ピカデリー近く)で、山車の前に勢ぞろいした光景。

祗園祭礼内西町(現中央一丁目)

 
裁判所前に山車の仮小屋を建て、その前に勢ぞろいした光景。仮小屋をつくる風習は大正10年前後にだけ見られた。

祗園町祭風景

 
川口川を埋め立てて、昭和10年にできた祇園町。公募で東祗園町となったが,後に「東」を取った。町の氏神さまは幸福稲荷。提灯の印はお稲荷様のもの。
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