![]() | 行方市(旧玉造町)にあった老松「高須崎の一本松」の在りし日の姿。かつては一本松の辺りが霞ヶ浦湖岸であった。茨城百景にも選出され昭和30年代までは元気な松であったが、現在は枯死し、新しい松が植えられている。 |
![]() | 古くから名勝として知られた歩崎観音(長禅寺)のある台地上から、霞ヶ浦が潮来方面・土浦入り・高浜入りに分かれる三又沖を望んだ一葉。現在のかすみがうら市(旧出島村)歩崎。 |
![]() | 現在の稲敷市阿波崎地内から霞ヶ浦を望んだ一葉。阿波崎は浮島の南側に当たる。 |
![]() | 行方市(旧玉造町)にあった老松「高須崎の一本松」の在りし日の姿。かつては一本松の辺りが霞ヶ浦湖岸であった。茨城百景にも選出され昭和30年代までは元気な松であったが、現在は枯死し、新しい松が植えられている。 |
![]() | 霞ヶ浦に浮かぶ島であった浮島の西端に位置する和田岬から出ていた渡し舟の様子を写した一枚。現在の浮島は地続きになっている。 |
![]() | 霞ヶ浦東南部の河岸として栄えた牛堀の集落の様子を、当時あった千歳屋という建物の上から撮影した一葉。 |
![]() | 霞ヶ浦東南部の集落牛堀から撮影した一葉。江戸時代後期に牛堀からの富士山の絵を、葛飾北斎は富嶽三十六景で描きました。 |
![]() | 霞ヶ浦東南部の河岸として栄えた牛堀の様子を撮影した一葉。牛堀集落の北側台地上の権現山から南を望む。 |
![]() | 現在は、昭和28年(1953)に復元された八卦堂内にあり、高さ3.18m、幅1.91m、厚さ24cmの大理石製の碑である。徳川斉昭の撰による弘道館の教育綱領が刻まれている。昭和20年の戦災で一部破損したのを、現在は補強している。 |
![]() | 常磐神社の境内にあった招魂社を開基とし、明治11年社殿が造営され、昭和16年現在の場所に遷座された。幕末の混乱期から太平洋戦争までの県出身戦没者の霊が合祀される。 |
![]() | 弘道館の敷地周辺を水戸第二公園といい、老梅が数百本残されている。八卦堂はその内部に、徳川斉昭による弘道館記念碑を置いている。 |
![]() | 偕楽園内部にある3階建ての好文亭と奥御殿は、天保13年(1842)の建設。好文亭の名は梅の別名好文木に由来。昭和20年の空襲で焼失し、昭和32年復元される。奥御殿は昭和44年に落雷で焼失し、47年に復元される。 |
![]() | 大洗市街地を見下ろす高台に位置する大洗磯崎神社本殿と拝殿。拝殿は、1730(享保15)年に水戸藩主3代綱条が再建した。この地方の海の守護神として信仰を集めている。 |
![]() | この建物は、1929(昭和4)年に土佐出身で宮内大臣であった田中光顕が、明治天皇の威徳をあらわすため、かねてから思い入れの深かった水戸藩内の地に地元有志の援助を受けて建設した。現在は幕末と明治の記念館として公開されている。 |
![]() | 鹿嶋市内に現在も残る鎌足神社の旧状を伝える一葉。大化の改新を主導した中臣(藤原)鎌足は、一説によると、鹿島の出身と伝えられ、屋敷跡に造られたのがこの鎌足神社である。藤原氏は鹿島神宮を崇敬し、平安時代にも藤原道長の娘彰子が水晶の玉を奉納している。 |
![]() | 鹿嶋市に現在も残る鎌足神社の旧景。大化の改新で活躍した中臣(藤原)鎌足は、鹿島出身との説があり、この神社は旧宅跡に建立したものと伝える。 |
![]() | 鹿嶋市下生に鎮座した古代の港の守護神をまつる津東西社と鎌足神社の旧景。前者は昭和33(1958)年の国道改修に伴い境内が二分され、昭和35(1960)年に現在の鹿島神宮境内に移転した。後者は、中臣鎌足の父中臣御食子が鹿島の宮に仕えていたといわれることから、鎌足自身も鹿島の出身であるとの説があり、その旧宅にまつられた神社である。 |
![]() | 鹿島神宮の飛び地境内地である高天原の旧景。鹿島灘に面した地で、中央には鬼塚という名前の塚がある。 |
![]() | 鹿島神宮境内の入り口部分に位置する鳥居で、この絵葉書では朱塗りの木造となっているが、現在は石製のものである。なお一ノ鳥居はさらに西方に位置した。 |
![]() | 鹿島神宮所蔵の国宝「直刀 黒漆平文太刀拵(くろうるしひょうもんたちこしらえ)」と、明治天皇が鹿島神宮に奉納した剣の写真。前者は師霊劔(ふつのみたまのつるぎ)とも呼ばれ、刀身2.2mを超える平安時代前期の作である。 |
![]() | 現在、国指定重要文化財となっている鹿島神宮の楼門。1634(寛永11)年に水戸藩初代藩主徳川頼房が造営した。朱塗りで雄大な門である。 |
![]() | 水戸藩初代藩主徳川頼房が1634(寛永11)年に造営した朱塗りの門。現在は国指定重要文化財となっている。 |
![]() | 現在、国指定重要文化財となっている鹿島神宮の楼門。1634(寛永11)年に水戸藩初代藩主徳川頼房が造営した。朱塗りで雄大な門である。 |
![]() | 写真面の下段には「官幣大社鹿島神宮 大鳥居」と記載があり、右上には「鹿島神宮8.6.17参拝記念」とスタンプされる。写真では木造だが、現在の鳥居は石製である。 |
![]() | 記載面の切手欄には、朱の二重丸内に八のスタンプが押される。写真面の下段に「大正四年建替用材は下総國香取郡より運搬し來たる」と記載されたことから、その後程無い時期の絵葉書と考えられる。 |
![]() | 鹿島神宮の奥宮は、1605(慶長10)年に徳川家康が造営した旧本殿を、1619(元和5)年の造営の際に現在地に移したものである。現在、国指定重要文化財となっている。 |
![]() | 現在、国指定重要文化財に指定されている建造物「鹿島神宮本殿・拝殿・幣殿・石の間」の旧景。仮殿とともに、1619(元和5)年に江戸幕府2代将軍徳川秀忠によって造営された。本殿は、極彩色あざやかな漆塗りの三間社流造、拝殿は素木の入母屋造となっている。 |
![]() | 徳川2代将軍秀忠の造営による本殿と拝殿である。徳川家は鹿島神宮を厚く崇敬し、石田三成の文禄検地によって五百石に削られた神領に千五百石を新たに加えて、二千石とする朱印状を発行した。幕末までこの朱印地に変更は無かった。 |
![]() | 建久9(1198)年の伊勢ごよみに「ゆるぐとも よみやぬけじの 要石 鹿島の神の あらんかぎりは」(読み人知らず)という歌が載ったのが、要石と地震の記録で最古のものである。 |
![]() | 御座石、山の宮ともいわれ、鹿島神宮境内奥の樹叢の中にある。石の根が深く、地震を起こすナマズを地中でおさえていると伝えられる。 |
![]() | 「みたらしいけ」と言う。鹿島の七不思議に数えられ、この池には大人が入っても子供が入っても水は乳の辺りまでしかないと言われる。昔は神宮の森の北側は入り江になっており、船で詣でた人々はここで上陸し、手を洗い身を清めてから参拝したのでこの名が付けられた。古来、神職が潔斎する池である。 |
![]() | 現在の湊公園にあたる。徳川光圀が元禄年間に建てた別荘「夤賓閣(いひんかく)」と、幕末安政年間に建設された水戸藩の郷校「文武館」の跡地を、明治30(1897)年に公園として整備したものである。写真の背景に写るのはクロマツで、光圀が須磨明石から取り寄せたものといわれる。 |
![]() | 旧那珂湊市(現ひたちなか市)の著名な海水浴場を写した一葉。阿字ヶ浦、平磯と共にこの姥の懐(うばのふところ)は、清浄な海水として人気があった。昭和59年には、旧那珂湊市は夏季海水浴客数は全国一となっている。 |
![]() | 旧那珂湊市(現ひたちなか市)の海岸線を写した一葉。那珂湊周辺の平磯から酒烈にかけての海岸線には、白亜紀層を起源とする岩礁がこのように多く見られる。 |
![]() | 明治・大正・昭和初期まで平磯海岸は、海水浴場・潮湯治場として関東一円にその名を知られた。明治40(1908)年には、国木田独歩もこの地を訪れている。 |
![]() | 平磯は漁港としても著名であり、鮪(まぐろ)や鰹(かつお)を流れ網で捕らえる漁法が幕末に導入されて以降、隆盛を極めた。写真は、漁船から多量に水揚げされた鰹が砂浜に無造作に並ぶ光景をとらえている。 |
![]() | 横利根閘門は日本人技術者だけで建設されたもので、7年余りの歳月をかけて大正10年に完成しました。現在もこの閘門は使用されており、平成12年に国指定重要文化財になりました。 |
![]() | 明治期の利根川改修に伴い、利根川が増水しても霞ヶ浦に逆流しないように、また利根川の増水時にも横利根川と利根川の水位変動を調節して船の航行を可能とするために造られた煉瓦式造複閘式の閘門です。 |
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![]() | 筑西市(旧関城町)関館所在の国指定史跡関城跡に残る関宗祐父子の墓です。1341(興国3)年つくば市の小田城を出た北畠親房は、この城を拠点に南朝勢力の結集を図りますが、1343年に戦いに敗れ、城は落城しました。現地には今もこの石造宝篋印塔のほか、北朝方が城攻めで掘ったという坑道の跡が残されています。 |
![]() | 鹿島神宮の本殿と拝殿です。1619(元和5)年に徳川秀忠によって造立され、現在は国指定重要文化財になっています。 |
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