![]() | 昭和6(1931)年8月26日午後2時、アメリカのリンドバーグ機は霞ヶ浦の海軍航空隊水上班に着水した。カナダ、アラスカ、ベーリング海峡、千島、根室を経て、太平洋横断の空路を開拓した。 |
![]() | 昭和6(1931)年8月26日午後2時、アメリカのリンドバーグ機は霞ヶ浦の海軍航空隊水上班に着水した。カナダ、アラスカ、ベーリング海峡、千島、根室を経て、太平洋横断の空路を開拓した。 |
![]() | 昭和6(1931)年8月26日午後2時、アメリカのリンドバーグ機は霞ヶ浦の海軍航空隊水上班に着水した。カナダ、アラスカ、ベーリング海峡、千島、根室を経て、太平洋横断の空路を開拓した。 |
![]() | 絵葉書袋。表には「北太平洋横断 東洋訪問 リンデイ機」とあり、裏面には手書きで「昭和六年八月二十六日午後二時九分霞ヶ浦着 リンデー機到着記念」とある。収集時は絵葉書3枚が収められていた。 |
![]() | 海軍航空隊本部(現在の茨城大学農学部にあたる)の正門。 |
![]() | 海軍航空隊本部(現在の茨城大学農学部にあたる)の正門。絵葉書の画面が磨耗しているためタイトル文字が一部不明。「霞ヶ浦海軍航空隊本部正門」と書かれていたと思われる。 |
![]() | 飛行場の建設が進み、本部建物が建設され始めたのは大正9年末頃からである。本部の場所は、現在の茨城大学農学部にあたる。 |
![]() | 十年式艦上戦闘機 |
![]() | 「アブロ」陸上練習機・「アブロ」水上練習機 |
![]() | 横廠式水上偵察機 |
![]() | 「ハンザ」水上偵察機 |
![]() | 十年式艦上偵察機 |
![]() | 十年式艦上攻撃機 |
![]() | 「シール」飛行艇(水陸両用機) |
![]() | 「バイキング」飛行艇(水陸両用機) |
![]() | 絵葉書袋「霞ヶ浦海軍航空隊絵葉書 丙」。「戦闘機」「陸上偵察機」「水上偵察機」「艦上偵察機」「艦上攻撃機」「飛行艇」の写真絵葉書がおさめられていた。 |
![]() | 日英同盟を結んでいた日本は、操縦技術を教授してもらうため、イギリスの飛行教官団を招請した。教官団はコの字型の海軍宿舎に入居した。 |
![]() | 日本は飛行技術を日英同盟を結んでいたイギリスからまなんだ。イギリスが相当数の飛行機を製造しており、実践経験も有していた。 |
![]() | 英国教官団長のセンピル大佐一行が実施した航空教育では、イギリスから購入した110機の飛行機が使用された。アプロ陸上練習機・アプロ水上練習機・スパロホーク艦上戦闘機・艦上偵察機などである。 |
![]() | 大正10年7月22日に霞ヶ浦飛行場の開場式がおこなわれた。イギリス人の教官オードリース少佐の落下傘降下に見学者は賛嘆したという。 |
![]() | 英国教官団長のセンピル大佐一行が実施した航空教育では、イギリスから購入した110機の飛行機が使用された。アプロ陸上練習機・アプロ水上練習機・スパロホーク艦上戦闘機・艦上偵察機などである。 |
![]() | タイトルから格納庫のことと思われるが、詳細不明。 |
![]() | 英国教官団長のセンピル大佐一行が実施した航空教育では、イギリスから購入した110機の飛行機が使用された。アプロ陸上練習機・アプロ水上練習機・スパロホーク艦上戦闘機・艦上偵察機などである。 |
![]() | 絵葉書袋。裏面に朱字で「拾二枚壱組定価金二十銭」とある。飛行場開場時の絵葉書を含む。 |
![]() | 川口川の上空を飛行する海軍航空隊の複葉機。たくさんの帆柱をたてた高瀬船が停泊している。左手には「通運丸」がみえる。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。中央格納庫の建設は大正12(1923)年の半ばごろとされる(『阿見と予科練』より)。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。十年式とは大正10(1921)年に三菱内燃機製造会社によってつくられた艦上戦闘機。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。大正10年に開発された十年式戦闘機をスケールアップしたのが十年式艦上偵察機である。第1号機は大正11年1月に完成。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。大正10年に開発された十年式艦上戦闘機に続いて、雷撃機と艦上偵察機がつくられ、いずれも十年式と冠した。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 絵葉書袋「霞浦海軍飛行場」の全16葉のうちの一枚。 |
![]() | 霞ヶ浦海軍航空隊の絵葉書袋で表側には航空隊の複葉機が描かれている。裏側に「土浦富山発行」の印と「拾六枚壱組 金二十銭」とある。 |
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![]() | 霞ケ浦海軍航空隊の飛行場で撮影された軍用飛行機の絵葉書集。全8枚入。 |
![]() | 短艇はカッターとも呼ばれる。14人乗りのボートであり、左右に漕ぎ手が6名ずつオールを持って漕ぐ。艇指揮、艇長が後部に位置する。 |
![]() | 海軍航空隊の訓練の様子。 |
![]() | 軍事学として通信術を学んだ。場面はモールス符号の送受信訓練を行っているところか。 |
![]() | 課業終了後や土曜日の午後などには、武技や球技・水泳などで体力気力の錬成を行った。 |
![]() | 土浦海軍航空隊の帆走訓練の様子。 |
![]() | 課業終了後や土曜日の午後などには、武技や球技・水泳などで体力気力の錬成を行った。 |
![]() | 課業終了後や土曜日の午後などには、武技や球技・水泳などで体力気力の錬成を行った。 |
![]() | 朝礼後の海軍体操の光景か? |
![]() | 課業終了後、夕食までは柔道、剣道などの武技、球技、水泳などでさらに体力気力の錬成を行った。土曜日の午後も大掃除の後、同じく武技や球技、水泳等を行った。 |
![]() | 予科練生を操縦組と偵察組に進路を分けるための飛行適正検査(飛適)の時には、教官が同乗し、指示により操縦を実施して適性を検査された。 |
![]() | 課業終了後、夕食までは柔道、剣道などの武技、球技、水泳などでさらに体力気力の錬成を行った。土曜日の午後も大掃除の後、同じく武技や球技、水泳等を行った。 |
![]() | 木銃を用いた訓練。 |
![]() | 絵葉書袋。昭和15(1940)年に土浦海軍航空隊は独立をした。予科練の名で知られた。 |
![]() | 木銃をもちいた訓練や、剣道や柔道などで錬成された。 |
![]() | 座学としては通信、軍制、航空などがあり、主に午前中に行われた。 |
![]() | カッターとも呼ばれる短艇での訓練。 |
![]() | 食事の様子や吊床(ハンモック)による就寝がわかる。 |
![]() | 左は海軍航空隊本部でその前にあるのは雄飛の松で、紀元二六〇〇年記念行事(昭和15(1940)年)の一環として植えられ航空隊のシンボルとなった。下は号令台で、昭和17(1942)年に昭和天皇がこの台上にお立ちになり、予科練生の体操を視察している。 |
![]() | 予科練習生教程の教育では操縦組と偵察組とに進路をわけるための飛行適正検査(飛適)の時に教員と同乗し、指示により操縦を実施することが行われた。実際の操縦は予科練卒業後の飛行練習生教程から学んだ。 |
![]() | 体操や掃除の様子。朝礼後に海軍体操が行われ、引き続き各所の清掃がなされた。 |
![]() | 水泳、器械体操、飛び込み、ラグビーなどがおこなわれた。 |
![]() | 「土浦海軍航空隊 飛行練習生生活写真 第一輯 昭和拾八年九月二十四日検閲済」とある。昭和17年に検閲・発行された土浦海軍航空隊の絵葉書はカラーであったが、こちらはモノクロである。 |
![]() | 「土浦海軍航空隊 飛行練習生生活写真 第二輯 昭和拾八年九月二十四日検閲済」絵葉書袋。 |
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