![]() | 霞ヶ浦より見た筑波山。船は実写ではなく、描かれたものと思われる。 |
![]() | 水平線にシラウオ漁をする帆引き船がみえる。 |
![]() | 人々でにぎわう祇園市場の仲見世(中央2丁目)の様子。撮影年代は昭和15年頃か? |
![]() | 祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年に町営土浦公営市場の名の下に6月1日に一斉に開店した。当事としては珍しく自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった |
![]() | 土浦市街地を東側より望んだ航空写真。手前を流れるのが桜川で、右奥に筑波山がみえる。 |
![]() | 昭和11年に開通した亀城通り。物見櫓は土浦警察署前にあったもの。奥の建物は豊島百貨店。 |
![]() | 帆柱を立てたまま停泊する高瀬船が印象的な夕暮れの川口川河口。 |
![]() | 旧国道六号にあった松の木。国道の開通は昭和9(1934)年のことで、昭和12年の台風によってこの松は倒木した。 |
![]() | 昭和11(1936)年まで使われていた土浦警察署の建物。現在のファミリーマート付近。 |
![]() | 虫掛付近の様子。四手網漁がさかんであった様子が分かる。 |
![]() | 川口川を埋め立てて祇園町ができたことがよく分かる一葉。戦後に制作されたもの。 |
![]() | 「日本美術院発祥の勝地、潮の干満に陰顕する奇岩怪石は常磐海岸美の極致を示している」。北茨城市の五浦海岸の絵葉書。 |
![]() | 「町屋根が夢のように水に浮かんでいる、桟橋の影もくっきりと、枯れ葦におく玉露が月に光っている。」 |
![]() | 「古風な橋柱が対岸の単調さに引き立って好い対象をみせている、櫓声湖心をわたって水郷の朝は静かだ」 |
![]() | 「那珂川の河口を跨ぐ、白虹の如き長橋、万里の海風古松を撫でて、河身をすべる汽艇に砕け散る水泡も快い。」 |
![]() | 「長堤を洗い、葭の洲を浸して悠々と流るる大江。苫船の帆綱が漂々と風に鳴る。 |
![]() | 「水あれば洲あり、洲あれば葭あり、舟波に夢を揺られて立ち騒ぐ、行々子の声が湖面の静かさを破る。」 |
![]() | 江戸時代から河岸として発展をしてきた土浦の川口川。川口川が霞ケ浦に注ぐ河口の様子を写した一葉である。河口には帆柱を立てた高瀬船がみえる。高瀬船の帆をたたまれ、棹をさして航行している。他にも小さな帆をはった舟がみえる。左手は水神宮で、手前にはサッパ舟が係留されている。。タイトルの英語表記「THE TSUCHIURA RIVER-MOUTH,KASUMIGAURA」 |
![]() | 霞ヶ浦に注ぐ小野川の河口近く。江戸崎には河岸があり、江戸時代から物資流通のひとつの拠点であった。 |
![]() | タイトルに「水郷の湖来」とあるが、おそらく「水郷の潮来」のあやまりであろう。 |
![]() | 霞ケ浦の景とのみあるが、「土浦名所」(分類4)に同じ絵葉書が存在することから、土浦川口川河口であることがわかる。 |
![]() | 霞ヶ浦海軍航空隊水上班を台地よりのぞむ。同じ絵葉書は「土浦名所」(分類4)にもある。 |
![]() | 牛堀は現在の潮来市。停泊するさっぱ船の先、水上では漁をする人影がみえる。 |
![]() | 川口川河口。左側の建物は海軍航空隊の汽船乗り場。同じ絵葉書でタイトルを変えたものが「土浦名所」(分類4)のなかに含まれている。 |
![]() | 麻生天王崎の風景。松のあいだに見えるのは外輪船であろうか。 |
![]() | 風景写真に筑波山や船を描き込んだと思われる絵葉書。 |
![]() | 霞ヶ浦の水運で活躍した「通運丸」。蒸気機関で船腹左右に各一対の外車を運転し動力とした。 |
![]() | 小松勢至ヶ丘(土浦市小松)の花見の様子。高台から霞ヶ浦や市街地、筑波山を望むことができた。 |
![]() | 新治郡役所と土浦城櫓門が写されている。新治郡役所は大正12年の郡制廃止後、新治郡自治会館となることから、大正12年より以前に発行された絵葉書である。 |
![]() | 大正時代の桜川での四つ手網漁の様子。桜川の堤防はこの後たびたび改修が行われていく。 |
![]() | 小松の勢至ヶ丘における花見風景と思われる。茶店がでていたようで「エビスビール」の文字もみえる。 |
![]() | 絵葉書 解説文 「潮来は昔から三社詣の足溜めとして栄え、水郷を彩るあやめ踊りの本場として名高く、今なおその面影をとどめてにぎやかである。」 「水郷といえば直ちに潮来を連想するほど潮来は水郷の中心として有名であろう。写真はその潮来出島渡船場付近の風景。」 |
![]() | 解説文 「水郷の情緒はこの牛堀付近からいよいよ本格的である。花美しい匂やかなあやめの眺めもこの辺りではひとしお趣が深い」 |
![]() | 解説文 東洋一といわれる利根川大閘門、利根川と霞ヶ浦の水位を調整するために設けられたもの、このところから洲のなかに入る。 |
![]() | 解説文 水郷の白眉与田浦は加藤洲のなかにある。与田浦沼にあって、マコモ茂りアシ深く、あやめ咲き誇り、水郷の香り一段と濃い。 |
![]() | 解説文 水郷の漁獲もまた楽しみの一つだ。コイとかエビ、ウナギとかシラウオ、ことにワカサギが多い。網に踊る魚をその場に食する風味、実に千金。 |
![]() | 解説文 霞ヶ浦の南岸近くにあってマコモとアシに包まれた浮島。周囲12km。写真はその浮島の北岸和田の入江の風光。 |
![]() | 解説文 加藤洲の東に開ける波逆浦。大利根の流れ合いあうところ。その汪洋たる水の美。明麗なる風光は水郷の異色である。 ※汪洋(おうよう)水が豊かで水面が広々としている様子。 |
![]() | 解説文 オランダの風景を思わせる水郷十六島付近の眺色、十六島の名は十六の集落を意味している。 |
![]() | 解説文 鹿島神宮への参道にかかる参宮橋、大船津と延方とを結ぶ全長540間の素晴らしい長橋。昭和4年11月に完成。 |
![]() | 解説文 潮来出島のお月さま・・・・と唄われるここ潮来出島は優しいあやめの花に飾られて水郷の情緒もっとも心にしみる。 |
![]() | 解説文 あやめとマコモに包まれ、ヨシキリの鳴く声に明け暮れする水郷にも、このモダンな水郷大橋がかかって、急に近代化の感がする。 |
![]() | 解説文 水郷情緒の真価を知る十二橋の入口、ここから船は棹さして徐行し、両岸にはマコモ茂り家あれば必ず橋がある。 |
![]() | 解説文 赤く映える夕陽、マコモに渡る夕風、さざなみに散る金と銀、そこらに鳴いていた鳥も帰って行った。静かに暮れる水郷。 |
![]() | 解説文 柳、ポプラ、マコモ、あしなど景物に恵まれて北利根の流れが注ぐところに、夕陽の美で名のあるこの牛堀がある。 |
![]() | 16枚入りの袋。戦前。 |
![]() | 水戸城の二の丸御三階櫓。記念スタンプの日付が「9・8・22」とあることと、宛名面の書式から大正9年とわかる。 |
![]() | 空の部分のみ着色された絵葉書。水戸城二の丸の御三階櫓が写る。この櫓は戦災にて焼失した。 |
![]() | 水戸城址において三の丸と二の丸を結んだ大手橋。宛名面の書式から大正7(1918)年以前の発行とわかる。 |
![]() | 水戸城址大手橋と水戸藩の藩校弘道館の正門・正庁。大手橋を人力車がわたっている。絵葉書宛名面の書式から大正7~昭和8年の発行と推定される。 |
![]() | 水戸城の二の丸側より藩校弘道館を望む。水戸徳川家9代藩主徳川斉昭により天保12(1841)年に創設された。 |
![]() | 水戸城二の丸址にたつ御三階櫓(昭和20年の空襲により焼失)。実質的な天守閣であった。 |
![]() | 水戸城二の丸跡にたつ御三階櫓(昭和20年に空襲により焼失)。 |
![]() | 水戸城二の丸跡にたつ御三階櫓(昭和20年に空襲により焼失)。異なるアングルの絵葉書あり。 |
![]() | 水戸城の二の丸跡に建つ御三階櫓。昭和20年の空襲により焼失した。 |
![]() | 水戸城二の丸跡にたつ御三階櫓(物見櫓)。絵葉書宛名面の形式から大正7~昭和8年の発行とわかる。 |
![]() | 「MITO MEISHO」(水戸名所)とローマ字でタイトルが記された一葉。 |
![]() | 筑波鉄道(現つくばりんりんロード)の筑波駅から筑波山神社へむかう途中にある鳥居。雄大にそびえる筑波山がみえる。 |
![]() | 筑波山ケーブルカー(筑波山鋼索鉄道)の開業は大正14(1925)年10月のこと。関東地方では箱根に次いで2番目のケーブルカーであった。 |
![]() | 筑波山を神郡方面より望む。馬や人力車もみえる。 |
![]() | 四季折々の風景を並べた絵葉書。シリーズで発行されたものと考えられるが、収蔵品はその1のみ。 |
![]() | 筑波町全景とあるが筑波山中腹の様子を被写体としたもの。大正時代後半~昭和時代初期の発行。 |
![]() | 筑波山を南側からのぞむ。山麓の様子がよくわかる一葉。 |
![]() | 筑波山を中心にした鳥瞰図。画面下部に筑波鉄道の線路が延び、そこから筑波山への登山道が伸びる。 |
![]() | 筑波山ケーブルカーは戦時中に不急不要施設として撤去されたが、昭和29(1954)年11月に復活をしてた。 |
![]() | 大正14年に開業したケーブルカーは、全長1.6km、最急勾配は1000分の350、高度差は507mに達した。 |
![]() | 桜川堤の花見風景。土浦の料亭「霞月楼」の大きな雪洞【ぼんぼり】がみえる。右手は昭和8年(1933)に架けられた匂橋。匂橋は木橋で、水郷土浦の花見の名所としてにぎわった。 |
![]() | 戦前の桜川の花見風景。屋形船や貸しボート、霞ヶ浦沿岸各地からの船もでて、水上から花見を楽しむ人々がいた。 |
![]() | 戦前の桜川の花見風景。水郷汽船による観桜汽船の発着場付近とみられる。堤防にも川にも人が多く出ている。貸しボート屋が数軒あり、ボートをこぎながらの花見が人気であった。 |
![]() | 満開の堤防を多くの人が行きかっている。昭和7年(19322)には臨水遊歩路が完成し、水際からも桜を楽しめた。正面にかかる橋は、昭和9年に開通した国道6号の土浦橋である。 |
![]() | 咲きそろう桜の堤に多くの見物客が行き交っている。桜川堤の桜は航空隊・水郷・筑波山といった周辺の観光資源とともにクローズアップされ、春の土浦の一大イベントとなっていた。春は花見、秋は花火である。 |
![]() | 土浦八景シリーズのひとつ。旧水戸街道にかかる銭亀橋付近からみた桜川の風景。正面の社(森)は大町の道祖神とみられる。 |
![]() | 下田は現在の文京町付近の旧町名である。江戸時代に上沼があった場所で、写真の当時は一面の水田であった。具体的な撮影地は不明。 |
![]() | 土浦八景シリーズの一葉。雪の土浦城址。奥に見える建物が櫓門である。手前の土塁上に鐘楼と東櫓があった。 |
![]() | 霞ヶ浦の月。おそらく月は描きこまれたものと思われる。実際に使用された絵葉書である。 |
![]() | 本丸の堀と土塁ごしに櫓門(太鼓櫓)と旧新治郡役所の屋根がみえる。屋根には薄っすらと雪が積もる。明治時代末から大正時代初期の撮影か。 |
![]() | 土浦の街の背後に筑波山がみえる。手前には水田が広がっている。中央左よりの建物は料亭「日新楼」か。 |
![]() | 立田町の土浦高等女学校の校舎。現在の土浦第二高等学校。県南女子教育の中心となった学校である。もともとは土浦中学校(現:土浦第一高等学校)の校舎として使用されていたが、明治38年(1905)の土浦中学校の真鍋台移転により、高等女学校の校舎として使われるようになった。 |
![]() | 茨城県立土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)は、明治38年3月に立田校舎から真鍋台の新校舎に移転した。茨城県技師駒杵勤治により建てられた新校舎は、現在、国の重要文化財に指定されている。 |
![]() | 広大な葦原が広がる霞ヶ浦の様子がよくわかる。 |
![]() | 旧土浦警察署の火のみ櫓から桜橋方面を望んだもので、手前左側に豊島百貨店、中央に川口川と桜橋がみえ、後方には土浦町役場が見える。昭和10年、川口川の埋め立てによる祇園町の誕生まで、桜橋までのぼってくる小舟があった。右岸にはバラックが並んでいる。亀城通りが完成していないころの町並みである。 |
![]() | 土浦市東崎町にある鷲の宮(鷲神社)の境内。鷲の宮は江戸時代の土浦八景のひとつ「鷲宮夜雨」にも選ばれている。 |
![]() | 朝日橋から望んだ川口川の風景。奥にみえる祗園橋の脇には警察署の物見櫓が立ち、さらに豊島百貨店の建物がみえる。川には水上に突き出たバラックと言われた棟割長屋式の店が立てられていた。 |
![]() | 櫓門と公園の宿り木。宿り木はクロマツの幹にエノキが着生した共生木。昭和33年に茨城県指定天然記念物となったが、枯れて伐採され、昭和59年に指定が解除となった。櫓門の前の堀は埋め立てられている。 |
![]() | 手前には投網をする漁師が、奥には棹をさす人の姿がみえる。舟の中央にみえる漁具はアジャラであろうか。 |
![]() | 旧水戸街道で桜川にかけられた橋が銭亀橋であった。昭和9年に国道の土浦橋ができるまで、土浦と高津を結ぶ主要な橋であった。 |
![]() | 川口川に沿って並ぶ町並みの背後に霞ヶ浦がみえる。中央の橋は朝日橋。手前の看板には「繭市場」(豊島百貨店)の文字がみえる。 |
![]() | クロマツの樹幹にエノキがが着生した共生木。昭和33年県指定文化財になるが、松くい虫被害により伐採された。 |
![]() | 祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年に町営土浦公営市場の名の下に6月1日に一斉に開店した。当事としては珍しく自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。 |
![]() | 屋形船がでてにぎわう桜川のお花見風景。桜川の桜は明治時代終わりに550mに渡って植樹されたあと、増植を繰り返して桜の名所となりました。 |
![]() | 自動車が交通手段になると、旧城下町の曲がりくねった道ではなく、直線的で舗装された道の整備が必要となったた。新国道は昭和7年に高津真鍋間で工事が開始された。土浦橋は桜川に架橋され、昭和9年5月の完成である。 |
![]() | 色川三郎兵衛は常磐線建設のときに、堤防の機能を供えた線路を湖岸に敷設することに尽力し、町を洪水の被害から救った。この銅像は戦時中に供出され、現在は新しい像が湖畔(港町)に建てられている。 |
![]() | 川口川の風景。両岸に数多くの舟が停泊している。また、岸には柳の木が植えられている。水郷としての風景をよく伝えている。 |
![]() | さまざまな大きさの船が行き交う様子がよくわかる。 |
![]() | 海軍航空隊の軍都にふさわしく軍艦型の駅舎である。昭和11年につくられた。 |
![]() | 土浦城櫓門。手前の堀は明治時代に埋められたが昭和9年の公園整備に際して最掘削された。 |
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![]() | 大正12(1912)年に完成した桜川橋。土浦町と阿見原の海軍航空隊を結ぶ道路に架けられた、県内初のコンクリート製の橋であった。 |
![]() | 土浦町の中心部。手前に伸びてくるのが川口川で奥には桜橋がかかっている。写真の右手の道は旧水戸街道で本町・中町・田町である。 |
![]() | 田中八幡宮の境内前景。右側に鳥居が、左側の松のあいだに本殿がみえる。 |
![]() | 銭亀橋上流より望む。右側が高津、左側が大町側である。 |
![]() | かつて桜川には貸しボート屋があり、桜の時期や夏に賑わいをみせた。後ろにみえる橋は桜川橋。 |
![]() | 海軍航空隊のうち阿見坂下にある水上班を眺望したもの。霞ヶ浦に面した敷地に格納庫などがみえる。 |
![]() | 川口川にかかるのは朝日橋。行き交う小船が数多い。画面手前、右川岸の細長い建物は、川にせり出して作られた長屋式の建物。 |
![]() | 川口川と桜橋を中心に土浦町の西側を撮影したもの。中央の3階建ての建物は土浦町役場である。手前の左端に見えるのは豊島百貨店(土浦繭糸市場)の屋根。 |
![]() | 大正12年に完成した桜川橋。土浦町と阿見原の海軍航空隊を結ぶ道路に架けられた、県内初のコンクリート橋であった。 |
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![]() | 川にかかる橋は祇園橋で、左側には豊島百貨店(土浦繭糸市場)、土浦警察署と火の見櫓がみえる。川沿い(右岸)にはバラックが並ぶ。 |
![]() | 川口川の河口。中央には汽船と思われる船などがいくつか浮かぶ。左側の建物は霞ヶ浦海軍航空隊汽艇乗り場。 |
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![]() | 旧水戸街道の銭亀橋。江戸時代には桜川にかかる唯一の橋であった。土浦八景の一つ「銭亀夕照」に数えられた。 |
![]() | 東崎町の鷲宮神社の境内。土浦八景の一つ、鷲宮夜雨に数えられた。 |
![]() | 川口川の河口。中央には汽船と思われる船などがいくつか浮かぶ。左側の建物は霞ヶ浦海軍航空隊汽艇乗り場。 |
![]() | 祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年に町営土浦公営市場の名の下に6月1日に一斉に開店した。当事としては珍しく自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。 |
![]() | 祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年に町営土浦公営市場の名の下に6月1日に一斉に開店した。当事としては珍しく自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。 |
![]() | 川口川の一部を埋め立てて昭和10年に祇園町が誕生した。写真は川口川の最も奥となった部分で、そこから先は暗渠になっていた。埋め立て以前は、さらに上流の桜橋まで船が進むことができた。 |
![]() | 櫓門方向から現在の博物館方向を望んだ写真。昭和9年に整備されたひょうたん池がみえる。左側にたつのは鉄道大臣原脩次郎の銅像で昭和10年に建てられたが、戦時中に供出された。現在は胸像が再建されている。 |
![]() | 城下町以来のメインストリート(陸前浜街道)の屈曲した道を迂回するため、町の西側に国道(旧六国、現在の国道125号線と354号線)が昭和9年に開通した。その国道の中央に残されたのが北門の松。浄真寺前にあったが、昭和12年に台風で倒れている。したがって撮影時期は昭和9~12年の間とである。 |
![]() | 旧水戸街道で桜川にかけられた橋が銭亀橋であった。昭和9年に国道の土浦橋ができるまで、土浦と高津を結ぶ主要な橋であった。 |
![]() | 祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年に町営土浦公営市場の名の下に6月1日に一斉に開店した。当事としては珍しく自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。 |
![]() | 桜川にかけられた旧水戸街道の銭亀橋。右側が大町(旧城下町)、左側が下高津となる。 |
![]() | 昭和15年(1940)頃の桜川堤の桜と土浦橋の風景。六号国道の敷設により桜川に架橋された「土浦橋」は、昭和9年の完工である。1930年代、桜川堤の桜は土浦の観光名所になった。 |
![]() | 昭和15年(1940)頃の土浦駅前。土浦市役所本庁舎北側から亀城公園方向を望む。行き交う車のなかに乗り合いバスもみられる。右にみえる多田自動車商会は市内でバスを運行したほか、土浦-牛久間に新路線も開設した。 |
![]() | 昭和15年(1940)ごろの川口川風景。水郷土浦を代表する景観。両岸に柳を植樹して景観整備がなされ、「水の公園」と称された。現在はモール505、高架道になっている。停泊している右側の船には「江戸崎」という文字がよめる。 |
![]() | 昭和15年(1940)ごろ。昭和9年に川口川の一部は埋め立てられ、昭和10年に商店街(祇園町)が造られた。当時としては珍しい自家発電、自家水道を供えた近代的な商店街であった。通りの奥に見える建物は豊島百貨店である。 |
![]() | 左側に大正11年(1922)に建てられた忠魂碑、右側に宿り木がみえる。亀城公園では昭和10年(1935)に景観整備が行われ、瓢箪池などが造られ、水郷らしい公園が誕生した。昭和15年ごろの公園風景である。 |
![]() | 豊島百貨店はもともと土浦繭糸市場で、繭の取引が行われない時期に百貨店として売り場を設けていた。昭和11年(1936)に繭糸市場が閉鎖されてからは百貨店として一本化された。土浦町の大型店舗の先駆けであった。昭和15年ごろの風景。 |
![]() | 土浦市は昭和15年に土浦町と真鍋町の対等合併により誕生した。現在の筑波銀行の位地にあった旧土浦町役場が土浦市役所となった。 |
![]() | 昭和12年に新築された土浦警察署(立田町の現在地)を昭和15年ごろに撮影したもの。その後、昭和51年10月に現在の建物に改築された。 |
![]() | 小松勢至ヶ丘をバックに走る常磐線の汽車(画面右手)。明治時代末~大正時代前半に発行されたもの。 |
![]() | 絵葉書袋 |
![]() | 川口川閘門は霞ヶ浦からの逆水を防ぐためにつくられた。 |
![]() | 祇園町は川口川の埋め立てにより造成され、昭和10年(1935)に町営土浦公営市場の名の下、6月1日に開店した。当事としては珍しい自家発電・自家水道まで備えた近代的商店街であった。昭和11年には6号国道と土浦駅を結ぶ亀城通りが完成し、祇園町はその中心となる商店街として発展した。 |
![]() | 昭和10年代の川口川最奥部(現在のモール505入口、セントラル前)。正面にみえる建物は旧常盤銀行土浦支店で、昭和10年に他行と合併して常陽銀行が誕生したため民間に売却されていた。 |
![]() | 国道6号にかかる土浦橋は昭和9年5月に完成した。後方に見えるのは旧水戸街道にかかる銭亀橋である。 |
![]() | 桜川にかかる木橋。江戸時代の土浦で桜川にかけらた唯一の橋。右側が大町、左側が下高津になる。川で漁をする人影がみえる。 |
![]() | 色川三郎兵衛は常磐線敷設の際、湖岸堤防をかねた線路の建設を主張。土浦町を洪水の被害から救った人物として顕彰されている。戦時中に供出され、現在は湖岸に銅像が再建されている。 |
![]() | 亀城(きじょう)通りは、土浦町東側の常磐線土浦駅と西側の国道6号線とを結ぶ通りであった。豊島百貨店(左手奥の建物)などもこの通りに位置した。 |
![]() | 昭和時代初期の河口の様子。写真にも写る「あやめ丸」などが麻生・牛堀・潮来さらに鹿島方面と土浦を結び、霞ヶ浦観光の一時代をつくった。船着場の脇には人力車もみえる。 |
![]() | 川口川の河口の様子。手前には土浦と湖岸の町を結んだ「あやめ丸」の姿がみえる。中央の橋は港橋で、大型の船が行き来できるように中央が高く作られた太鼓橋であった。 |
![]() | 船を下りる海軍航空隊の人々。海軍航空隊の玄関口となったことが、土浦町のさらなる発展につながった。 |
![]() | 亀城公園は昭和9(1934)年に整備が行われた。明治時代に埋められた太鼓櫓(櫓門)の前の堀を掘返したり、ひょうたん池が造成されたのもこの時で、公園としての体裁が整った。 |
![]() | 下高津の紅葉ヶ丘より望んだ土浦町。手前が下高津の集落で茅葺屋根の建物もみえる。桜川の堤防には桜並木がみえ、その背後に土浦町が広がっている。 |
![]() | 左側は祇園町の商店街で、現在のモール505入り口の広場付近にあたる。霞人形制作所の看板がみえる。たにしで作る霞人形は昭和9年に製作が開始され、郷土工芸品として予科練の面会に訪れた人々などが買い求めた。 |
![]() | 中城町の通り(まちかど蔵大徳の北辺り)から本町方面(土浦商工会議所前の屈曲する部分)を望んだ様子。バスが曲がっている地点が桜橋(亀城通り)である。 |
![]() | 土浦駅の軍艦型をした駅舎は昭和11(1936)年に完成した。霞ヶ浦海軍航空隊への玄関口となる駅であったことから、この形が採用されたといわれる。 |
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